42 黒衣の殺意 その1
顔まで黒い布で覆った男の、唯一あらわになっている目と、視線がぶつかる。
冷ややかな殺意に満ちたまなざしに、氷の手で心臓を掴まれたように身体がこわばる。
周康に知らせねばと焦るのに、声が出ない。
明珠がぎゅっと周康の腕を掴んだのと、賊が窓を乗り越えたのが同時だった。
振り向いた周康の目が驚愕に見開かれる。
「《
周康が立ち上がりながら《縛蟲》と放つより先に、男が《
男めがけて地を
が、明珠はそれを確認する間もなかった。
周康に乱暴に腕をとられ、背に庇われる。
「《
周康が喚び出した何匹もの盾蟲と刀翅蟲が、空中でまともにぶつかる。
刀翅蟲に切り裂かれた一匹の盾蟲が、勢い良く窓にぶつかる。
その時にはもう、腰から剣を引き抜いた賊が、疾風のように周康に迫っていた。
盾蟲の一匹が、かろうじて男の剣を弾く。
が、男はあわてた様子もなく、新たな刀翅蟲を喚び出しながら、さらに剣を振るう。
明確な殺意を乗せた剣筋は正確で、周康はあっという間に防戦一方に追い込まれる。何とかしなければと思うのに、明珠はただ、周康の陰で震えるしかできない。
もともと術師は武芸に秀でている者が少ない。《蟲》がいれば、並の剣士など術師の敵ではないため、剣の腕を磨くより、術師としての才を伸ばした方がよいからだ。
というか、そもそも術師は安全が保障された最奥で術を振るうのが常だ。
術師に何かあれば、召喚した蟲も
刀翅蟲に斬られた盾蟲が卓にぶつかり、いくつもの皿を跳ね飛ばす。菓子ごと床に落ちた皿が、けたたましい音を立てた。
が、明珠はそちらに視線を向ける
周康に庇われている自分が足手まといなのはわかっている。
だが、恐怖に身体がこわばって、言うことを聞かない。
背を向けて逃げ出せば、次の瞬間、男に斬りつけられそうで。
清陣に『蟲殺しの妖剣』で斬られた時の恐怖を思い出し、身体が震えだす。
「明順!? 何があったの!?」
皿が割れた音が隣室にも届いたのだろう。侍女の一人がやにわに扉を開ける。
明珠と周康の意識が、思わずそちらに向いた瞬間。
男が飛び回る盾蟲の間隙を縫うように剣を振るう。
とっさに盾にした周康の腕から、鮮血が舞った。
「ぐぅっ」
周康の苦悶の呻きと、侍女の悲鳴が重なる。
「ひ……っ! ぞ、賊よっ! 誰か……っ!」
みなまで言わせまいと、男が侍女に向き直り、走り出す。
「だ、だめ……っ!」
恐怖も忘れ、明珠は思わず周康の背から飛び出した。
「いけません!」
周康の制止も耳に入らない。
「《盾蟲! 来てっ》」
明珠の声に応じて、三匹の盾蟲が姿を現す。
「《行って!》」
侍女に迫る男の背中に体当たりするよう、盾蟲に指示を出す。
羽音に気づいた男が振り返り、剣で盾蟲を防ぐ。盾蟲と鋼がぶつかり合う高い音。
「《刀翅蟲》」
口元を覆う黒い布の下で、男が低い声で刀翅蟲を喚ぶ。が、その時には周康も刀翅蟲を喚んでいた。
刀翅蟲同士が空中でぶつかり合う。その隙に、明珠は男の横をすり抜け、侍女に駆け寄ろうとした。
悲鳴を上げた侍女は腰が抜けたのか、へたりこんで壁にしがみついている。
大きく開いた扉の向こうがどうなっているのか、明珠の位置からは見通せないが、他の侍女が駆け込んできてはまずい。
常人には蟲の姿さえ見えない。刀翅蟲が万が一、向こうの部屋へ放たれたら一大事だ。
気は焦るのに、身体は思うように動いてくれない。
すくみそうになる身体を叱咤し、剣が届かぬよう、男の左側を大回りして駆け抜ける。
もう少しで扉に手が届くかというところで。
どんっ、と何か固いものが勢いよく背中にぶつかる。
それが男の剣に弾き飛ばされた盾蟲だと気づいた時には、大きく体勢を崩していた。
「きゃ……っ!」
前へつんのめりながら、反射的に手を伸ばす。その手を。
「明順っ!」
ぐいっと強く引かれ、明珠は涼やかな声の主に抱きとめられた。
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