41 お嬢様さえお望みになられたら、いくらでも。 その4


「……残念ながら、わたくしがお嬢様にお教えできることは、一つもないのでございます……」


 妙に腰が引けた様子で、周康が答える。


「聞かれるのでしたら、お願いですから龍翔殿下ご自身に直接お聞きください! わたくしも命を失いたくはございませんから……っ!」


 何やら怯えた様子で呟いた周康が、


「ええっ、やはり龍翔殿下にご相談されるのが一番よろしいかと! 殿下自身も《蟲招術》に長けてらっしゃいますし、何より、禁呪を受けたご本人ですから!」


「わ、わかりました……」


 勢いに押されるようにこくこく頷くと、周康があわてた様子で言い足した。


「ですが、わたくしの助言とは、どうぞ殿下にはご内密でお願いいたしますっ!」


「は、はあ……」

 わけがわからぬまま、あいまいに頷く。


 助けを求めるように視線をさまよわせていた周康が、卓の片端に置かれた巻物の小山を見て目を輝かせた。


「そうです! こちらの巻物で学ばれてはいかがですか!?」

「え?」


 初華から、ぜひ巻物を読んでほしいと言われてはいるが……。


「初華姫様は、禁呪のことはご存じないですよね……?」


 加えて、用意された巻物は、蟲招術の本ではなく、恋物語だと言っていたはずだ。それが禁呪を解くのにどう役立つのだろうか?


 小首をかしげると、周康が遠慮がちに問うてきた。


「失礼ながら、お嬢様はあまり恋物語を読まれたことがないのでは?」


「はい。小さい頃は、字を覚えるために、母さんと一緒におとぎ話を読んだりはしたんですけれど……」


 母が亡くなってからは、読み物や娯楽に費やせるお金も時間も、消え去ってしまった。


「今まで読まれたことのない物語を読んで知識を得たら……。もしかしたら、禁呪を解く鍵が見つかるやもしれませんよ?」


「そういうものなんでしょうか……?」


 禁呪を解くためというのなら、蟲招術についての本を読んだ方がいいと思うのだが……。


 しかし、龍翔が蚕家に滞在している間、ずっと季白と書庫にこもって調べたが、手掛かりを見つけられなかったのも確かだ。


 半信半疑で尋ねた明珠に、周康は自信たっぷりに、きっぱり頷く。


「ええ! こちらの書物は、明珠お嬢様に必要なものであると確信しております!」


「わかりました! 周康さんがそうおっしゃるのなら!」


 周康の言う通り、新しい知識を得ることは大切だ。

 季白特製の教本だって、明珠が今までまったく知らなかった知識が満載で、暗記するのは難しいが、同時に面白くもある。


「ぜひともお読みください!」


 周康に勧められるまま、明珠は立ち上がり、巻物の小山の前に移動した。

 美しい装丁がされた巻物には題名が書かれた紙片が張りつけられている。


「じゃあ、これにします」


 明珠が選んだのは『恋と官試は苦難の細道』という題名がつけられた巻物だ。

 官試というのは、官吏になる人物を選ぶために行われる試験のことだ。もしかしたら、何か順雪の役に立つ知識が書かれているかもしれない。


「わたくしはのんびりとお茶を楽しんでおりますから、どうぞ気にせずお読みください」

「ありがとうございます」


 周康の言葉に甘え、椅子に戻って巻物を開くと、手書きの美しい筆跡が目に飛び込んできた。一本一本、書き写して作られる巻物はとても高価で、貧乏人の明珠にはとても手が出ない代物だ。


 間違っても汚したりしないよう、菓子の皿を遠ざけてから読み進めていく。


 主人公は、裕福でない家に暮らし、立身出世を目指して官試に合格しようと勉学に励んでいる青年だ。


 数年後の順雪を連想させる境遇に、自然とのめり込むようにして巻物を読んでいく。


 行き倒れそうになっていたみすぼらしい老人を助けた青年は、老人から小さな水晶玉を渡される。

 その水晶玉が縁で身分が高い家の令嬢に出逢い、互いにかれ合うが、青年の身分では、想い合っていても、青年が官試に合格して出世せねば結ばれる日は来ない。


 そうこうするうちに、令嬢に婚約話が持ち上がり、青年が助けた老人は実は術師だとわかり……。


 令嬢が禁呪を使う悪い術師に狙われている事態がわかったところで、明珠は思わず、「ええっ!?」と驚きの声を上げた。


 巻物はちょうどそこで終わっている。きっと続きの巻があるのだろう。


 一巻まるまる読み終わり、ようやく現実へ戻ってきた明珠は、ほう、と息をついて丁寧に巻物を巻き直した。


 主人公の青年を応援するあまり、時間も忘れて読みふけってしまった。

 喉の渇きを覚え、すっかり冷めきってしまったお茶で喉を潤す。


 物語というのが、こんなに面白いだなんて。

 初華が「ぜひ読んでちょうだいね」と勧めてくれたのもわかる。主人公の青年は、令嬢はどうなってしまうのだろうかと、胸がどきどきはらはらしている。周康の存在すら、頭から吹き飛んでしまっていた。


 ずっと静かだったが、明珠が巻物に夢中になっている間、周康はどうしていたのだろうと視線を向けると。


 周康は、右手で口元を覆い、青い顔で下を向いていた。


「周康さん!? 大丈夫ですかっ!?」

 明珠は驚いて立ち上がると卓を回り込む。


「すみませんっ! 周康さんのことを放って巻物を読みふけっていて……! 誰か呼んできましょうか!?」


 明珠が巻物に夢中になっている間に、周康がこれほど調子を悪くしているとは。

 天気が悪くて、波が高いせいだろう。いつの間にか、この部屋に来た時よりも、船の揺れが大きくなっている。そのせいで酔ってしまったに違いない。


 そんなことにも気づかなかった自分が情けない。きっと、明珠に遠慮して酔ったのを言えなかったのだろう。

 周康の青い顔を見ると、罪悪感で胸が痛くなる。


 明珠の問いに、周康は血の気の引いた顔のまま、かすかに首を横に振った。


「酔っただけですから、だいじょ……、っ」


 吐き気がこみ上げてきたのだろう。周康が詰まらせ、口元に当てた手に力をこめる。


「周康さんっ!? そ、そうだっ、窓を開けて風に当た――」


 言いかけて、気づく。


 頬を、湿気を含んだ重い風が撫でていく。


 初華の船室は岸辺とは逆側だが、龍翔や初華の姿を一目見ようと港に詰めかけた人々のざわめきが落ち着いて過ごすには邪魔だろうと、部屋に入った時は、すべての窓をぴっちりと閉めていたはずなのに――。


 不意に、背中がぞくりと粟立つような感覚を覚え、明珠は窓を振り向いた。


 その視界に飛び込んできたのは。


 いつの間にか開けられていた窓と、まさに今、窓枠に足をかけ、船室に入ろうとする全身黒ずくめの一人の男だった。

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