27 赤ん坊がどうやって生まれるか知ってます? その2


「何だこれはっ!?」


 ひび割れた声が、雷霆らいていのようにその場にいる全員を撃つ。


 その声に、身体を支えていた糸を切られたかのように、明珠はふたたび、へなりと床に座り込んだ。


 顔どころか、全身が沸騰ふっとうしているのに血の気が引いていく、矛盾した感覚。


「いったい明順に何を――!?」


「本人のためでございます」


 龍翔の怒声を遮るかのように、季白の冷徹な声が割って入る。


 明珠の悲鳴が聞こえたのだろう。季白と張宇、周康が厨房の戸口に姿を現していた。


 龍翔の苛烈な視線が季白を射抜く。


「ふざけるなっ! こんなもののどこが――」


「玲泉様が興味を持っている今、明順の無知はあまりに危険すぎます。今のままでは警戒心すら抱きようがないではないですか」


 龍翔の苛烈な視線を真っ向から受け止めた季白が、淡々と説明する。


「これでも龍翔様のお心にかなうよう、心を砕いたのですよ? わたし自身ではなく、女人である梅宇殿達にお任せして――」


「だからといってはないだろうっ!?」


 ばんっ、と龍翔が卓を叩く。その手の下では、紙がくしゃりと潰れていた。

 季白がいぶかしげに眉を寄せる。


「あー、その……。季白サン……?」


 すこぶる言いづらそうに口を開いたのは安理だ。


「明順チャンの教育用なら、ちゃんとそう言っておいてくれなきゃ困るっスよ……。オレはてっきり、季白サンが自分のおたのしみに使うもんだと思って、その……」


「? 何だというのです? はっきり言いなさい」

 季白が切れ長の目を細めて安理を見やる。


 安理はとんでもない悪戯いたずらを親に見つかった子どものような顔で、ごまかすように、にへら、と笑った。


「いやー、最近、鬱憤うっぷんが溜まってるっぽい季白サンを喜ばせてあげよーと、かなりキワドイ春画を……」


「こんな下劣なもので明順の目をけがすなっ!」


 龍翔が怒りをぶつけるかのように、紙を握りしめる。


「ああっ、龍翔サマ! それ好事家にはかなりの高値――イエ、なんでもないっス!」


 刺すような視線で龍翔に睨みつけられた安理が、あわてて口をつぐむ。


「季白! なぜちゃんと中身を確認しなかった!? 梅宇も!」


 龍翔の怒鳴り声に、季白が淡々と、梅宇が身を縮めるようにして、恥ずかしそうに謝罪する。


「申し訳ございません。まさか、春画にそのように種類があるとは思いもせず……。わたくしの手落ちでございました」


「お詫びのしようもございません! その……。やはり見るのはためらわれまして……」


 梅宇にならって、梓秋と梓冬も深々とこうべを垂れる。


 消え入らんばかりに身を縮める梅宇達の様子に、さしもの龍翔も心動かされたらしい。

 怒りを押し込めるかのように、深く深く吐息する。


「……このせいで明順が解呪を嫌がるようになったらどうしてくれる……」


 苦々しくこぼれた呟きに、真っ先に反応したのは季白だ。


「そのようなこと、許せるはずがございません! いっそのこと――」

「黙れ!」


 叩きつけるような怒声に、季白だけでなく、全員が身を強張らせる。


「……とにかく。お前達は出てゆけ」


 吐息とともに、龍翔が投げやりに命じる。

 梅宇達が即座に、弾かれたように立ち上がった。


 明珠も立ち上がろうとしたが、腰が抜けてしまって、足に力が入らない。


「あ、あの……」


 立って出て行かねばと焦っていると、へたり込む明珠に視線を落とした龍翔が、


「お前はそのままでよい」

 と低い声で告げる。


「で、でも……」


 明珠が戸惑う間に、潮が引くように季白達が全員出ていく。龍翔がおざなりに卓に放り出した紙を、素早く安理が回収したのがちらりと見えた。悲鳴の原因になった紙が消えて、明珠は内心でほっとする。


 ぱたり、と厨房の扉が閉まり。


「明順。その……」


 先ほどまで怒り狂っていた人物と同じとは思えない困り顔で、龍翔が明珠の前に片膝をつく。


「いけません! お着物が……っ」

「着物など、どうでもよい!」


 強い声で告げた龍翔が、首が折れそうなくらい、深く頭を下げる。


「季白達がとんでもないことをしでかして、すまなかった」


 耳に心地よく響く声に、凍りついていた時間がようやく動き出したように、じわりと涙があふれる。龍翔の端麗な姿が涙の向こうににじんだ。


 明珠の反応がないのをいぶかしく思ったのだろう。ゆっくりと面輪を上げた龍翔が、明珠がぽろぽろと涙をこぼしているのを見て、目を見開く。


「明順っ!?」


 伸ばされかけた右手が、しかし、何かに気づいたように途中で止まる。


「明順、その……。ふれても――」


「どうして龍翔様が謝られるんですかっ!?」

 飛びつくように、龍翔の右手を両手で握りしめる。


「謝らないといけないのは、私の方です! さっき……っ!」


 嗚咽おえつでうまく言葉にならない。

 龍翔が不思議そうに首をかしげる。


「何を言っている? お前こそ、謝ることなど何もないだろう?」


「違います!」

 ぶんぶんと首を横に振る。


「だって、さっき龍翔様のお手を……っ」


 明珠が手を振り払ってしまった時の傷ついた龍翔の表情を思い出すだけで、胸が痛んで涙があふれ出す。


 謝罪の言葉を紡ごうとして。


「――ふれても、よいか?」


 不意に、龍翔が強い声で問う。


 こくこくと夢中で頷いた途端。

 龍翔の左腕が背に回り、思い切り引き寄せられる。衣にきしめられた香の薫りが、ふわりと明珠を包み込む。


「先ほどのことなど、気にするな。驚いて、とっさに振り払ってしまったのだろう?」


 ぽんぽんと優しく背中を叩かれながら、あやすように問われ、明珠はこくこくと何度も頷く。


「すみません……っ。龍翔様に、あんなお顔をさせるつもりじゃ……っ」


「謝らずともよい。あれほど驚かされたのだ。当然の反応だろう? その……。こちらこそ、すまん……」


 龍翔が気まずそうに、ふたたび詫びる。

 明珠はふるふるとかぶりを振った。


「龍翔様こそ、謝られる必要はございませんでしょう? お怒りになられていなくて、本当によかった……」


 安堵のあまり、ふたたび目に涙がにじむ。


 手を振り払ってしまったのを龍翔が許してくれて、本当によかった。

 胸の痛みが、ゆっくりと治まっていく。


 が、代わりとばかりに、別の心配が心を占める。


 不安に胸が轟く。

 思い出したくはない。が、あやふやにしたままでいるのも、なんだかすごく怖い気がする。


「どうした?」


 不安のあまり、龍翔の右手を握っていた両手に、ぎゅっと力がこもっていたらしい。

 龍翔が優しく問うて、明珠の顔をのぞきこむ。


「怒ってなどおらぬと言っただろう?」

「違うんです。その……」


 語尾が情けなく消えていく。

 龍翔が形良い眉をひそめた。


「どうした? 何か気になることがあるのなら、教えてくれ。お前のそんな顔を見ていると、不安で心が潰れそうになる」


 背中を撫でる龍翔の優しい手のひらが、明珠の心を後押しする。

 明珠は意を決して、にじむ視界で龍翔を見上げた。


「あ、あの、その……」


「うん?」

 龍翔が柔らかな声で続きを促す。


「あ、あれ……。あれが、『特別な儀式』なんですか……?」


 震え声で問うた瞬間、龍翔の面輪が凍りついた。


「違う! あれはその……っ! 安理の奴が用意するものを間違えたのだ! あれは決して『特別な儀式』などではないっ! 断じて違う!」


「は、はい……っ」

 龍翔の剣幕に呑まれ、反射的に頷く。


「よいかっ!? 絶対に違うからな! 誤解するなっ!」

「わ、わかりました……っ」


 龍翔のあまりに必死な様子に、明珠は涙をぬぐうのも忘れてこくこく頷く。龍翔が違うと断言するのなら、明珠が見たものは間違いだったに決まっている。


 ちらりと目にしただけだが、思い出すだけで心臓が飛び出しそうになる光景を、明珠は記憶の奥底に押し込める。あんなものはさっさと忘れてしまった方がいい。


 と、懐から絹の手巾を取り出した龍翔にぬれた頬を優しくぬぐわれ、明珠は我に返った。


「い、いけません! 絹の手巾を……っ。大丈夫です、自分のがありますから!」


 龍翔の手を押しとどめ、あわてて懐から自分の綿の手巾を取り出そうとする。が、それより早く龍翔が拭いてしまった。


「いつまでも床に座っているわけにもいくまい。どうだ? 立てるか?」


 龍翔が明珠の顔をのぞきこんで優しく問う。


「ああっ、すみません! 結局、龍翔様まで床に……っ」

 あわあわと詫びると、


「そんなことは気にせずともよい」


 苦笑しながら立ち上がった龍翔が、明珠に手を差し出す。

 素直に手を重ねると、力強い腕に引っ張り上げられた。


「少し早いが、今日はもう、着替えて休むといい。それとも、落ち着くように温かい茶でも飲むか? 菓子もあるぞ?」


「い、いえ。大丈夫です! お気持ちだけで……っ」


 これ以上、龍翔に手間をかけるわけにはいかない。

 明珠はぷるぷるとかぶりを振った。

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