12 「それ」は絶対、禁止です⁉ その1


 かぎなれた香のかぐわしい匂いが、すぐ近くから薫ってくる。


 明珠は深い眠りからゆるゆると浮上した。

 うっすらと開けた目に飛び込んできたのは、見覚えのない天井。


 旅をしてからというもの、毎日、違う宿に泊まるので、実家のみすぼらしい天井ではない立派な天井に驚くこともなくなった。

 が、今朝の寝台はやけに固い。実家の板の間を思い出す。


 それに、覚えのあるよい香りと、明らかに高級な肌ざわりの掛布は――。


「龍翔様⁉」

 跳ね起きようとして、明珠は右手が何かに掴まれているのに気がついた。


 視線をそっと、自分の右手に向ける。

 明珠の手をしっかりと掴む、明珠よりも小さな手。


 手から腕、肩へと視線で辿って行った先にあるのは、両足を投げ出して床に座り、長椅子に背中をもたせかけて眠る、少年龍翔の愛らしい面輪だ。


 眠っている間に少年姿に戻ったのだろう。せた肩から、着物がずれ落ちそうになっている。


「……?」

 全くもって、状況がわからない。


 明珠は懸命に眠る前の記憶を掘り起こす。


 昨夜は、龍翔と遼淵の三人で、豪華な夕食を食べて。母、麗珠の話をして。途中で遼淵が席を立ってしまって。


(……それから、何があったんだっけ……?)


 まったくといいほど覚えていないが、龍翔に謝らなければならないことがあったような気が、うすぼんやりとするのだが。


 まるで、頭に霧がかかったように思い出せない。

 というか。


(私っ、絹の着物を着たまま寝て……っ⁉ そ、それより! 龍翔様を床で、って……っ⁉)


 「龍翔様を床で寝かせるとは何事ですか⁉」と、季白の叱責が聞こえた気がして、明珠はあわてて身を起こした。

 龍翔がかけてくれたのだろう、絹の上衣が座った明珠の肩から滑り落ちる。


 明珠は眠る龍翔をおずおずと見つめた。


 そういえば、明珠の方が龍翔より先に起きるなんて、これまでなかったような気がする。朝が早いのか、人の気配にさといのか。龍翔は明珠が起きだす頃には、常に起きていた。


 少年姿の寝姿は、いつもよりいっそうあどけなく、少女といっても違和感がないほど愛らしい。


 こんな可愛らしい寝顔で、すよすよと眠る龍翔を起こしてもいいのかと、罪悪感を覚えるほどだ。が、このまま床に寝かせるわけにもいかない。


「龍翔様?」


 つないだままの手をそっと揺らすと、龍翔が身動みじろぎした。

 扇のように長いまつげを伏せていたまぶたを、ぱっちりと開いたかと思うと。


「明珠っ!」

「は、はいっ!」


 噛みつくように名前を呼ばれ、ぴんっと背筋を伸ばす。


「その……っ、夕べは本当にすまんっ‼」


「お、おやめくださいっ!」


 土下座しそうな勢いで謝る龍翔に、呆気あっけにとられる。

 龍翔に合わせ、自身も床に下りつつ、明珠は土下座しようとする龍翔の薄い肩を、あわてて押しとどめた。


「その、夕べって……。むしろ、私が何かしでかしたんじゃないんですか⁉」


 明珠の言葉に、龍翔が驚いたように動きを止める。


「……覚えて、いないのか?」


 いぶかしげな、けれどもどこかほっとしたような。踏み込んでよいのかどうか、迷うような声。

 明珠はあわあわと口を開く。


「そのっ、龍翔様に申し訳ないことをした記憶は、うっすらとあるんですけれど……っ! すみません! 私、夕べ何をやらかしたんですかっ⁉」


「お前は何もしていない‼」


 叩きつけるように返された語気の強さに、思わず口をつぐむ。


「したというのなら、わたしの方だ! その、謝って済む問題ではないのは承知しているが……! 本当にすまなかった‼」


「……」

 勢いよく頭を下げた龍翔のつむじを、明珠は黙って見つめる。


 深くうつむいた龍翔の表情は見えない。

 だが、痩せた肩が緊張に固く張りつめているのは、ずれ落ちかかった着物の上からでも見てとれた。


 重苦しい沈黙が、豪奢ごうしゃな部屋の中に落ち。


「そのぅ……」


 おずおずと口を開くと、見えないむちに打たれたように、龍翔の痩せた身体がびくりと震えた。


「私、はまぐりの酒蒸しで酔っぱらっちゃったのか、ご当主様も一緒に、おいしいご飯を食べたところまでしか記憶がなくって……」


 龍翔の言葉に応えられない自分が情けなくて、声が沈む。


「だから、龍翔様が何のことで謝ってくださっているのか、全然わからないんです……」


「それ、は……」

 龍翔の声が頼りなく揺れる。


 明珠を見上げた愛らしい面輪には、困り果てた表情が浮かんでいた。黒曜石の瞳が、迷いを宿してあちらこちらへと彷徨さまよう。


「だからですね」

 明珠は自分より背の低い龍翔に合わせるように、前に屈んだ。


「見たところ、高い器を割ったわけでも、絹の着物を汚したわけでもなさそうですし……。いえ、ちょっとしわをつけちゃったとは思うんですけれど……。と、とにかく! 私の方も、龍翔様に申し訳ないことをした気がするんですけど、それが何か思い出せないんです。だから……。龍翔様さえよろしければ、夕べのことは、なかったことにしませんか?」


「なかったことになど……っ!」


 告げた途端、目を怒らせた龍翔が明珠を見据える。かと思うと。


 凍りついたように、ぴしりと固まった。


「龍翔様?」

 不思議に思い、身を乗り出そうとした途端。


 突然、すごい勢いで顔を背けた龍翔に、長椅子の上に置きっぱなしになっていた上衣を、ばさりと頭から被せられた。


「ひゃっ⁉」

 衣に焚き染められていた香の匂いが明珠を包み込み、視界が閉ざされる。


「どうなさったんですか、急に……っ⁉」


 明珠はあわてて衣を取ろうとしたが、髪飾りに衣が引っかかって、うまく取れない。

 上衣自体、青年龍翔のもので布地が大きいせいで、幾つもつけている髪飾りのどれに、どこか引っかかっているのかすら、さっぱりわからない。万が一、絹の衣をほつれさせたら一大事だ。


「り、龍翔様! 助けてくださいっ! どこかが髪飾りに引っかかっちゃったみたいで……。取れません~っ」


 ばさばさと布を揺らしながら、情けない声で助けを求めると、上衣の向こうから溜息が聞こえてきた。


「……じっとしていろ」

「は、はい……」


 どこか呆れたような声に、もがくのをやめて、両手を膝の上でそろえる。

 龍翔の手が布をたぐり寄せ、そろそろとめくりあげる。


「す、すみません……」


 持ち上げられた衣の向こうに見えた渋面に、しゅんとなって謝ると、龍翔が小さく苦笑した。


「なんて顔をしている」


「ええっ⁉ だって、龍翔様にご迷惑を……」

「急にお前に衣を被せたのはわたしだ。お前は悪くないだろう?」


 諭すように言いながら、膝立ちになった龍翔が、明珠の頭に手を伸ばす。


「……思ったよりからまっているな。髪飾りをとってもかまわぬか?」


「あ、はい。寝乱れて崩れているでしょうし……。これ以上絡まる前に、取っちゃってください!」


 龍翔の細い指が、明珠の髪から飾りを丁寧に引き抜いていく。


「せっかく綺麗に結っていたのに……。惜しく感じるな」


「あ、これ、安理さんが結ってくれたんですよ! 本当に器用ですよね!」


 龍翔が引き抜いたかんざしやら、ほどいた紐やらを受け取りながら答えると、龍翔の手がぴくりと止まった。


「安理が?」

「そうですよ。昨日、着替えたところでわざわざ髪を結うために来てくださって……」


「夕べ」

 少年龍翔の涼やかな声が、不意に低くなる。


「髪を結う時に、安理に何か飲まされたり、食べ物をすすめられたりしなかったか?」


「? 果実水をいただきましたよ。蜂蜜入りで甘酸っぱくて、おいしかったです!」


 龍翔の声の低さをいぶかしく思いつつも答えると。


「ほう?」

「っ⁉」


 一気に部屋の空気を凍りつかせるような冷ややかな声に、明珠は息を飲む。


「料理には細工されていなかったのに、なぜかと思っていたが……。事前に仕込まれていたというわけか」


 さえざえとした怒気を放ちながら、龍翔が呟く。

 炯々けいけいと輝く黒曜石の瞳は、目を合わせるのが恐ろしいほどの苛烈さだ。


「あ、あの? 龍翔様……?」


 突然、龍翔が怒り出した理由がわからず、明珠はおずおずと主の名を呼ぶ。果実水を飲んだのが、それほど悪いことだったのだろうか。


「確実に季白と遼淵も噛んでいるな……。いや、遼淵が主犯か? わたしを侮るだけでは飽き足らず、よりにもよって――」


 黒曜石の瞳に怒りの炎が閃く。


 明珠はわけもわからぬまま、恐怖に震えた。恐ろしすぎて、正直、今すぐこの場から逃げ出したい。


 と、ふと昨日、安理に教えてもらったことを思い出す。

 困った時に龍翔に言えばよいと教えてもらった言葉。


(……あれ? 夕べもよく似たことを思ったような……?)


 だが、今、困っているのは事実だ。

 まあよいかと、明珠は両膝立ちのまま、さえざえと怒気を放つ龍翔をおずおず見上げた。


「あの、龍翔様……。どうか、おや――」

「言うなっ!」


 言い切るより早く。

 叫んだ龍翔が、両手で明珠の口を無理矢理ふさぐ。


「むぐっ⁉」


 飛びついた龍翔の勢いがあまりに強くて、仰向けに体勢を崩す。明珠が持っていた髪飾りが、硬質な音を立てて床に落ちた。


 仰向けに倒れた明珠に、少年龍翔にのしかかるような格好になる。龍翔が咄嗟に両手を口から放して我が身を支えてくれたのでつぶされずに済んだが、床に打ちつけた後頭部がじんわり痛い。

 が、痛みを感じている余裕もなかった。


「お前は……っ! いったいどういうつもりだっ⁉」


 えるような声に、びくりと身体をこわばらせる。鋭い視線に射抜かれたように、指先一つ動かせない。


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