科学者の徒花
仁藤 世音
ライナスの方舟
私の名前はライナス・バルディ。かつて科学者と呼ばれたものだ。富もあった、名声もあった、子は無かったが妻がいた。しかしそれは過去のことだ。
今の私は小さなコロニーで自給自足の生活を送っている。自作のコロニーでね、自信作さ。現にこの環境下でもこうして機能している。芋を栽培し、加熱し頬張る。そうやって生きてきた。
――ウィー。前方300メートルに巨大な影を確認。航路を変更してください
警告のアナウンスがコロニーに流れた。会話の相手のいない私にとって、唯一の他人の声がこのアナウンスだ。我ながら、妻の声で録音したのは天才的な決定だったと自負している。
制御室に向かいながら、この球体型のマイコロニーをご紹介しよう。決して自慢するわけじゃない。今いたのは生命の間。植物を育てて、酸素を生産し同時に食べ物を生産している。球体の下部にあたるな。上に行って、右が私の部屋だ。研究室と呼んでいたが、もうそう呼ぶのはやめた。球体上部が制御室、コントロールパネルをいじくったり、外を覗くためにもここが必要なん、だ、よいしょっと。さてさて、影はなんぞや? 球体上部から、スペシャル望遠鏡を伸ばすとだね、実に遠くまで見渡せるのだよ。
――ニョッキ
なぁるほど。確かに氷塊が流れてくるな。この海流ではコロニーとぶつかってしまう。進路をこうしてああして……よし。問題ない。しかし相変わらず黒い空だ。気が滅入ってしまうのでね、あまり外を見たくないんだ。
よいこらせっと。球体中心にあたるここは廊下空間。時間がなくて、無機質なセンスのない空間になった。で、さっき言わなかった左の部屋だが、ここは妻の墓だ。先に逝ってしまったので、妻の部屋がそのまま彼女の棺桶さ。私を信じてコロニーに残ってくれた、私の誇りだよ。私が先に死んで孤独な思いをさせてしまう可能性だけがネックだったが、そうならなくて心から安堵したね。
今でもよく覚えている。私はこの海上漂流コロニーに移住することこそ正解だと主張した。人類と文明を守るための唯一の方策だと。だが私はまだ若くて、味方が少なかった。
****
「地球の自浄作用で文明は破壊される。その予兆がもうこれほど出ているのに、なぜお認めにならないのです!?」
「荒唐無稽な戯言を言うな。温暖化よる北極南極の氷の融解は我々人類の罪だ。我々でそれを止めることこそ償いだというのに、地球に責任を押し付けるのかね?」
「それが出来るような賢い生物ではないんですよ、人類は! 私たちの根源には所詮破壊しかない。経済的、知識的、心理的に貧困である人間がこうも多い。全員が同じ方向を向いて初めてことが進む可能性があるのです。とうてい現実的ではない。人類が人類を滅ぼす、それが地球の自浄作用でなくて何なのです!?」
「やかましい! 科学者は科学者に出来ることに全力を尽くすのみだ。諦めてはならない! 前に進み続ける! それこそが我ら人間の誇りと宿命だ! バルディ博士ともあろうものが、嘆かわしい」
****
フン。心の中では分かっていたくせに、結局は諦めて未完成なスペースコロニーなんぞ作って。やつはめでたく大量虐殺の科学者に仲間入りしたではないか。海水面の異常上昇はこの私の想定さえも遥かに凌いだというのに。まだあるぞ。
****
「生態系の崩壊はもはや修復不可能な状態にあり、この理解不能なウイルスは増え続けるマダラノミ蜘蛛――全長8nm――によって世界中で媒介され、猛スピードで変異しています! もはや海に逃げる以外――」
「何よ!? 逃げるだなんて、あたしは医者なのよ!? 今この瞬間にもあのウィルスに苦しんでいる人がいる、感染の恐怖に怯える人がいる! インフルエンザもコレラもマラリアもHIVさえもあたしはこの星から葬ってきた。今度だって完璧なワクチンを作ってみせる」
「過去は過去です! あなたのその偉業を私は尊敬していますとも。しかし、今回はそうはいかない。少なくとも間に合わない。あなたという人類の希望が開発を続ける限り、みんなは信じてしまう頼ってしまう朽ちてしまう! それが分からないのですか!!」
「分からないわ! バルディ博士は医学が専門じゃないからわかってないのよ! あたしは諦めない、必ず活路を開く。人類の長い歴史は決してウィルスなんかに敗れたりはしない!」
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……フン。やっぱり間に合わなかったではないか。何十億人も死んでいったではないか。生態系の崩壊で突如発生したマダラノミ蜘蛛。個々の体内で個体ごとに別のウィルスを精製していた。千差万別、システム不明。どんな温度環境でも死なないタフな蜘蛛。こういう結末になると、彼女だからこそ分かったはずなのに。
人類を信じすぎるのは、人類の悪い癖だと思うね。
****
「博士、プレートの動きが異常すぎます! これは一体……」
「バルディ君。いや、ライナス。地球が怒りに震えているのだろうさ。怒りを買ったのは、人類だろうな。折角の美しい『地球』という作品を壊しすぎたんだ。そうでないと、説明がつかないよ。……私の研究、無意味だったのかもしれないなぁ。あらゆる法則が今のこの事実を否定してんだ。しかし、それは起こるだろう。地球規模の大噴火。生き物は再び海に還ることになりそうだ」
「……なんとか、ならないのですか。博士、私と共にコロニーに……!」
「ライナスよ。老いぼれはこの神託を受け入れたのだ。分かってくれ。……初めて私の前で泣いたな」
「……あなたがいたから私はこれだけの研究が出来たのです、博士。あなたへの敬意は、不変です。決して、決して……忘れはしません」
****
…………フン。こうして書いていても目が霞んでしまう。あの老いぼれ博士め、共に来ると、一言共に来ると言ってくれれば良かったものを……。
タイムリミットはすぐに訪れた。完成したマイコロニーからでも良く分かった。妻と避難した時点で未知のウィルスで人が大勢死んでいた。私たちが感染しないで済んだのは、はっきり言ってただの奇跡だった。やがて火山が火を噴いたのだろう、火山灰か何かの黒い大気が頭上を覆った。きっと世界中がこんな黒い空だ。それから上昇しきっていた海に氷塊が増えだした。太陽の熱が黒い大気でいくらか遮断されて、星全体が冷えたのだろう。そこまで高レベルで太陽熱を遮断するはずはないと思っていたのだが、何かを誤ったらしいな。
ところで、私たちに子はない。先にも述べたがな。この点については誇らしく主張したい。こんな光のない世界に、子どもを産み落とすわけにはいかないからね。妻と私の実に天才的な判断だったと、自負しているよ!
「これはこの男の手記か」
分厚い氷の中から発見された球体の中には、二体の人骨、そして手記があった。その手記をひょろりと長い二足歩行の生物が胸に抱え、ライナスの遺骨に謝辞を述べた。
「この星の偉大なる先住民、ライナス・バルディ博士とその奥様。感謝いたします。おかげでこの星の歴史を知る手掛かりが得られました。この環境はあなた方には毒だったことでしょう。しかし、我々にとっては探し求めた楽園なのです。この球体、いえ、コロニーを解析し、私たちで応用していきます」
やがてその生物はコロニーから外へ出た。
「人類を信じたバルディ博士に、敬意を!」
海を覆いつくした氷。その上に立った数万のひょろ長い生物たちが、黙とうを捧げたのだった。
科学者の徒花 仁藤 世音 @REHSF1
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