独白

桐生遙

本編

「――知ってる? 貴方のこと、もう誰も覚えてないのよ」


 国の辺境。隣国との境目として聳える山の、森の中。マツの木で出来た粗末な十字架は、そこにある。


 彼との出会いは、もう思い出せない。物覚えついた頃には既に、私にとって「目障りなもの」となっていた。

 私は所謂、気の強い娘だった。四人兄妹の末っ子、上の子供は全員男。町の議員を務めていた父親の元生まれた我々は、この町の将来を担う存在として、英才的な教育を受けていた。

 正直、兄妹の中で、私は一番物覚えが良かった。数式も外国語も歴史も科学も音楽も、いくつも年の離れた兄たちに引けを取らなかった。おまけに、剣術も。小さな体を生かし、何度も兄たちの隙をついては、首元に木剣を突き当てたことだ。

 私の周りに、私に勝てる者など、存在しなかった。――彼が現れるまでは。

 彼は、私の家に仕える、使用人の息子だった。家の子供たちと似たような年ごろだったため、遊び相手として、しょっちゅう親と共に屋敷に来ていた。親によく似た、茶色の髪に茶色の瞳。いかにも、平民によくいそうな、特に変哲もない、平均的で平凡な容姿だった。

 けれども、彼は非凡であった。それは、彼が剣を持ったその瞬間から。

 私は遊びの延長線上で、彼に勝負を挑んだ。かかってきなさいよ、あんたみたいな「普通のやつ」と、選ばれた私は違うのよ――そう言っては、彼を挑発した。彼はいつものように、けらけらと無邪気に笑いながら、私に木剣を向けた。

 数秒後。私の剣は、華麗なまでに宙を舞い、地面に落ちた。

 信じられなかった。あって良い訳が無かった。この私が、あんな平民のガキに負けるなんて。

 呆然とする私に、彼は先ほどと同様の、無邪気な笑みを向けていた。何てことのないように。

 そこからだった。私の「完璧な」人生は、ぽきっと音を立て、崩れた。


 彼の才能が父に気づかれるのに、さして時間はかからなかった。普段、滅多に感情を表に出さない父が、彼の剣術を見て、感嘆の声を上げたことをよく覚えている。父は、彼が私たちと同じような教育を受けられるよう取り計らった。彼の才覚は至る場所で発揮され、数式も外国語も歴史も科学も音楽も、必ず私以上の結果を出した。

 私は悔しさと、自らの惨めさに身を震わせた。ただ、残酷なのは私以上に、兄たちだった。父の跡を継ぐために、生まれた時から厳しい教育を受けてきた彼ら。彼が年齢を重ねるにつれ、その差は歴然とし、父は彼に跡を継がせるような素振りまで見せていた。

 けれども、不幸なのは私も同然であった。16になった頃、全てを悟った。

 ほら、これがお前の旦那様になる人だよ――父は、事務作業の一環であるかのように一枚の白黒写真を差し出した。そこには、髭を生やした、自分よりも10は上であろう男性が、椅子に座りこちらを見ていた。その頃から、剣術の指導回数がめっきり減った。こういうことか、と心の臓に、暗く重い何かがのしかかった。

 一方彼は、私と反比例するように、剣術に磨きをかけていた。その腕は王都まで伝わり、使者が屋敷までやってくるほどだった。

 私の知らないところで私の結婚話はとんとん拍子で進んだ。まるで、他人のことのように、その結論だけを父から聞いた。母は涙を流して喜んだ。私は何も言えなかった。

 結婚相手の屋敷に向かう朝。少し暑さの落ち着いた秋の日に、彼は相も変わらぬ笑顔で私に、おめでとう、と言った。そして、当然のことのように、自分も王都で騎士団に入るのだ、と続けた。

 その時、私はどんな顔をしていただろうか。今なら笑って返事出来るだろうか。

 「かつての彼」と接したのは、それが最後だった。


 彼の話は、都から少々離れた嫁ぎ先の町でも、嫌というほど耳に入った。史上最年少で騎士団長となった彼は、王からの信頼も大変厚く、何度も勲章を授与されていた。隣国との領土争いでは、あっと言わせるような作戦で見事勝利を勝ち取り、部下からの支持も得ていた。

 私と夫の間に子供が出来た頃。見たこともないような国をも巻き込んだ、大規模な戦争が起こった。彼も騎士団長として従軍し、辛くも勝利を収めた。国民の生活をも犠牲とした総力戦と呼ばれるこの戦争を救ったのは、紛れもなく彼だった。

 彼は、英雄になった。

 けれども、心を、喪った。


 子供が巣立って数年。夫を支えるために、私は自らの知識を生かして、医師の資格を得た。先の戦争での被害は大きく、後遺症に悩まされる元兵士たちは後を絶たなかった。足を失った者、両腕を失った者、視力を失った者。様々な症例を診てきたが、最も凄惨だったのは、悲惨な戦場により、「精神」を蝕まれた者だった。その一人が、彼だった。

 彼は先の戦争で、国内外に名声を轟かせた。この国史上最大にして最高の名誉を手に入れた。王女を娶った彼は、男の世継ぎのいない国王にとって、実質上の後継者になった。国民もみな、それを祝福した。

 子供も次々に生まれた。男の子ふたりと、女の子ひとり。玉のように可愛らしい王子と王女は、生きとし生けるもの全てに祝福されていた。

 だが、幸せはそこで終わった。彼が壊れてしまったのだ。

 私がその状態に気付かされたのは、もう既に彼が王宮から追い出されてからのことだった。王家の物とは思えないほど、辺鄙な山奥の小さな屋敷。彼はそこに、隔離されていた。

 以前家族のように暮らしていたこと。また、私に医療の心得があること。それらが王宮へ伝わり、私は治療の一環として度々彼の元を訪れた。

 彼は、生ける屍そのものになっていた。

 かつては戦場を渡り歩いた英雄。今は、やせ細り、目の焦点は合わず、譫言を口ずさむ哀れな老人。何が彼をそうさせたのか。診察の上で分かったことといえば、先の戦争における惨状が、彼を壊すトリガーになったということだけだった。

 国民をも巻き込む総力戦となったあの戦争。国民、及び国王の期待は兵士へと繋がり、戦争に負けて生還することは、敵国のスパイと認定されるほどであった。積みあがる敵と味方の死骸。戦って死んだのならまだましだ。彼の話の欠片を繋ぎ合わせると、どうやら死者は、国の勝利へのプレッシャーや飢え、長引く悲惨な戦場における精神崩壊による自殺によって、急増したとのことであった。

 自分を慕っていた部下たちが、心を壊し、味方に銃を向け、自らの喉元で引き金を引く。そんな日々を生きていた彼にとって、帰国後の「英雄」としての歓待は、拷問にも等しかったのであろう。彼は心を自ら壊すことによって、生を得た。得てしまった。

 王家に見放された哀れな英雄は、次第に人々の記憶からもすり抜けていった。王家は、自らの血筋の恥だと思ったのであろう、系図に彼の名を残すことも、歴史書にすら残すことも許さなかった。

 辺鄙な場所の古い館で、数人の使用人に世話をされながら、意味のない言葉を発する老人。かつて彼が英雄と呼ばれたことなど、誰が知っていよう。

 彼の死は、あっけなかった。戦場で死ぬことも、家族に囲まれ死ぬことも許されなかった、哀れな英雄。かつて彼だった肉塊は、粗末な木の棺に入れられ、誰も見ることのない森の奥に埋められた。使用人たちは、仕事終わりだというように、足早にその場を去っていった。私は、せめてもの慰めとして、老体に鞭を打ちながら、棺同様、粗末な十字架を作った。


 彼のことが嫌いだった。私から、あの小さな屋敷の中でも、いとも簡単に一番の座を奪った彼が大嫌いだった。性別が男だというだけで、剣を振るうことを許された彼が、憎たらしくて仕方がなかった。精神を患っても、この私の診療を受けられる彼は、どんなに恵まれているのだろうと、嘲笑った。

 だから、私は忘れてあげない。貴方が英雄だったということを。この私に勝った、唯一の人間だということを。


「貴方、知ってる? ――貴方、英雄だったのよ」


 夕日が沈もうとしている。何故だか昔の彼のけらけらと笑う声が、聞こえた気がした。


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独白 桐生遙 @kiryu66

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