木場雄介という人間(後編)
本田ひなの恋人らしき男と遭遇した後、雄介たちはまっすぐ家に帰ることにした。
占い店に逃げ込んで、橘に危害が及ぶのも避けたかった。
結局、雄介たちはそれぞれの家に戻るしかなかった。
雄介たちは未知の恐怖に晒されていた。
今までアニムス使いを相手取り、なんとかそれらを破壊してきたが、
向こう側から攻撃されることは初めてだった。
市川の騒動以来、学校でアニマの存在を意識することもなかった雄介たちにとって、
安全地帯だと勝手に思い込んでいた自分たちの生活の場にまで伸びてくる害意の手は、
恐怖以外の何物でもなかった。部屋に戻って瞼を閉じると、
ショッピングモールで雄介たちを取り囲んだ人々や男の敵意に満ちた目が蘇る。
本田ひなの存在は、着実に雄介たちの日常を侵食していた。
その日は夕食も喉を通らず、自室に駆け込んだ。
明日はどうなるだろう。また、あの男が学校に来るのだろうか。
もしくは、また一般人に寄生虫のようなものを取りつかせて差し向けてくるかもしれない。
明日の平和が脆くも崩れ去り、雄介は軽い恐慌状態に陥っていた。
なんとか気持ちを落ち着かせようとベッドの上に座り込んでいると、
スマートフォンが振動した。弥里たちの内の誰かだろうか。
SNSアプリを起動し、メッセージを確認する。
心臓が冷たい手で鷲掴みにされたような感覚に襲われた。
「この子は預かった。二度とひなに手出ししたくなくなるようにしてから、返す。
おまえたちもそうなりたくなかったら、ひなの目の前に今後一切現れるな」
メッセージの頭には弥里の名前と赤い花のアイコンがあった。
息ができなくなる。視界が明滅し、平衡感覚が崩れ去る。
すぐさま、康から電話がかかってきた。震える手で応答する。
「おい! これ、やべえんじゃねえのか!?」
康が興奮した口調で、矢継ぎ早に言葉を投げかけてくるが、情報がうまく入ってこない。
「多分、あの後つけられてたんだ。それで、弥里先輩が……
とにかく合流するぞ! 弥里先輩の家に行けば、何かあるかもしれねえ!」
電話が切られる。落ちそうになる意識を必死に手繰り寄せる。
弥里が攫われた? あの男に? 二度と手出ししたくなくなるようにする?
悪い夢だと思いたかった。恐怖と絶望が、雄介の心に静かに食い込んでいく。
===
夜の住宅街を、息を切らしながら走る。
信号も無視し、何度かクラクションを鳴らされながらも無我夢中で地面を蹴った。
駅まで歩いて十五分程度だったはずなのに、とんでもなく長い距離を走らされているような気分だった。
こうしている間にも、刻一刻と弥里の命のタイムリミットが迫っているかもしれない。
近道しようと細い路地に入る。灯りなどなく、真っ暗な路地を走っていると、何かが足を引っかけた。
その場に倒れこみ、何とか受け身をとるが、手のひらが裂けて血が滲む。
こんなことをしている場合じゃない。弥里を、助けないと。
だが、本当に助かるのか?
自宅に手掛かりがあるかもしれないと康は言っていたが、実際はどこで攫われたか分からない。
自宅にたどり着く前に弥里が攫われていて、その場所も分からず、
手掛かりもなければ、一巻の終わりだった。それ以上は追いようがない。
現実が雄介の心臓を押しつぶす。息が苦しくなり、酸素を求めて喘ぐ。
「何してるんだ」
背中をライトで照らされる。振り返ると、学校で会った警官がいた。
巡回中だったのか、なんなのかは知らない。
雄介は考える前に、近づいてきた警官に縋り付いた。
血まみれの手で制服を掴み、必死に揺さぶる。
「助けて、ください」
頬が濡れているのが分かった。鼻も垂れている。
もう雄介一人の力ではどうしようもなくなっていた。
みっともなく泣きながら、警官に懇願する。
「学校で立ってたあの男に、弥里さんが、先輩が誘拐されたんです!
助けて……助けてください……もう、俺たちだけじゃどうしようもないんです」
高校生がこんなことを言ったところで、警察が相手をしてくれるわけがない。
もう、終わりかもしれない。二度と弥里と会えないのかもしれない。
目から涙が溢れる。このまま枯れるまで泣いて、消えてしまうかと思えるほどに。
「誘拐……」
警官が小さく呟くのが聞こえる。
その顔は、硝子細工のようなもので覆われていた。仮面だった。
青ざめた色の仮面には、小さく目と口らしきものが彫られているだけで、
笑っているのか泣いているのか判別に困る造形をしていた。
「なんだ、これは。どうなっているんだ」
警官が声を張り上げ、虚空に手を伸ばす。目が見えていないのだろうか。
やがて警官は動きを止めると、「わけが分からんが」と仮面に手をかけ、剥がした。
光の粉となって消えた仮面を見て驚きつつも、警官が雄介を見つめる。
「君の言っていることは本当のようだ。ついてくるなと言っても来るだろう。
あっちに車を停めてある」
===
けたたましいサイレンが夜の街に響く。赤い光が規則的に回転し、辺りを染める。
パトカーの助手席で、雄介はただひたすら震えていた。
果たして、今から弥里の家に行って手掛かりを探して、間に合うのだろうか。
「あの、弥里さんの家はこっちじゃ」
「いいから任せてくれ。それに彼女の家に行っても仕方がない」
警官がハンドルを切る。車体が揺れ、体に振動が伝わってくる。
カーナビは弥里の家とは全く別の座標を示していた
この警官は一体何を考えているのだろうか。
さっきの仮面は恐らくアニマなのだろうが、一体どんなものなのだろうか。
何も分からなかった。恐怖と混乱の霧が頭の中を覆いつくしている。
「おい」
警官が低い声で、雄介に呼びかけてきた。
視線は前に向けたままだが、険しい表情で雄介に問いかけた。
「君はあの女の子を助けたいんだろう。なら、そんな風に震えている場合か」
そうだ、弥里を助けたい。今の雄介にあるのは、その一心だけだった。
礼二との過去だとか、アニムス狩りで被害者が出るのが嫌だとか、
そんなものはどこかへ行ってしまっていた。
「君の目を見ればわかる。大切なものを見落としていて、それに気づいて後悔している目だ。
俺は手遅れだったが……君は違う。自分の守りたいものをはっきりさせろ。
そして絶対に躊躇するな。徹底的に守り抜け。でなければ、死んでも死にきれなくなる」
猫を助けたときの弥里の笑顔が雄介の中に蘇る。立て続けに康や芽亜梨の顔が浮かんだ。
警官にそこまで言われて、雄介はようやく理解した。
礼二を死なせた雄介に、失うものなんて何もなかった。そう思い込んでいた。
実際は違った。弥里が、康が、芽亜梨がいた。
失いたくないと思えるものが、手の中にあった。ただ、気づかなかっただけだった。
自分を罰して罪に向き合っているつもりで、大切なものから目を背けていた。
自分のためにあんなに一生懸命になってくれる人たちを意識すらしていなかった。
涙が出る。自分の愚かしさを雄介は呪った。
大事な人を失う悲しみを、二回も味わうなんて。
「着いたぞ」
パトカーが止まる。窓の外には、こげ茶色のアパートがあった。
警官がドアを開け、アパートに駆け込む。訳も分からず、雄介もついていった。
二階の一室のドアの前に警官が立つと、動きを止めた。
顔の前に手をかざし仮面を出現させていた。よし、と警官が頷く。
仮面を消し、蹴破ろうとして足を振り上げる警官を呼び止め、黒百合を呼ぶ。
「このドアの先に何があるんですか」
「恐らく、君の先輩がいる。あの男と、女も一人いる」
雄介の黒百合を静かに見つめながら、警官がそう断言した。
今の雄介には、その言葉を信じるほかなかった。縋る思いで黒百合を起動し、影の刃を形成する。
それをドアの隙間に差し込み、思い切り振り上げた。堅いものを断った手応えが伝わってくる。
まだ間に合うのなら、何も惜しくない。何だってしてやる。だから、無事でいてくれ。
ドアノブに手をかける。警官が背中を軽く叩いてきた。
ドアを開け放つ。玄関があり、その奥の部屋にはあの男と本田ひながいた。
突如として現れた雄介と警官を見て、面食らっている。
男の手には半田ごてが握られている。
中学生のころ工作で使った、高熱になったペンのようなもので鉄を溶接する工具だ。
そして、彼らに挟まれるようにして、両手足をビニール紐で縛られた弥里が転がっていた。
傍にあるテーブルの上にはホッチキスや釘、ネイルハンマーなどが乱雑に広げられている。
雄介は胸の内からどす黒い何かが溢れ出すのを感じた。人としての常識や良心が弾け飛ぶ。
黒百合を起動しながら廊下を進み、部屋に入る。隣に並ぶように警官もそこにいた。
「嫌っ! 助けて、慎吾っ!」
本田ひなが叫び、男が雄介と警官に飛び掛かるが、伸ばした腕を警官に掴まれ、
そのまま投げ飛ばされた。床に叩きつけられ、男が動かなくなる。
「なんでよっ! 私、何も悪いことしてないのに!」
本田ひなが悲痛な声を上げる。小さな体を震わせ、目に涙を湛えながら雄介たちを見る。
だが、そんな視線に動じるほど、雄介は平静を保ってはいなかった。
極めて冷たく、本田ひなを見下ろす。
「したさ、大量にな。おまえたち二人とも、誘拐と監禁で現行犯逮捕だ」
警官が冷酷に告げると、本田ひなはそれまでの態度を一変させ、
歯をぎりぎり鳴らしながら髪に手を伸ばした。寄生虫を飛ばしてくる気だ。
だが、それをさせる雄介ではなかった。
影の腕を伸ばし、本田ひなの後ろ髪を掴んでそのまま持ち上げた。
本田ひなが金切り声を上げながら手足をばたつかせる。
歩み寄り、胸元に靴底を押し付ける。黒百合を起動したまま、右腕を引いた。
ぶちぶちと音を立て、頭皮ごと髪を引きちぎる。
本田ひながあらん限りのエネルギーを振り絞った絶叫を上げ、鮮血をまき散らしながら倒れこんだ。
白かった壁に赤黒いペイントがぶちまけられる。
「悪いことしてない? 笑わせんなよ」
ぶらりと垂れ下がった頭髪を投げ捨てる。
もはや慈悲などなかった。殺してやってもよかったが、ここは警官に任せるほかない。
「悪いことしてない人間なんか、この世にはいない。
人を傷つけずに生きてきた人間なんているもんか。
でも、お前はやりすぎた。何をされても文句を言えないくらいに」
そこまで言って、雄介は本田ひなから関心を失った。
これ以上、この女にかける時間はない。
床に転がっていたイヤーマフを影の刃で両断し、弥里に駆け寄って身を屈める。
怪我はないようだった。口にはガムテープが貼られている。
目には涙が浮かんでいるが、必死に堪えているようだった。
ビニール紐を切断し、ガムテープをそっと剥がす。
「雄介君」
自分の名前を呼ぶその声は、震えていた。左手で弥里の頬に触れる。
「ごめん、遅くなった。もう大丈夫だから」
涙がこぼれ、雄介の左手を伝う。
弥里は雄介の左手に自身の手を添えて、静かに目を閉じた。
===
弥里を助け出したことを電話で伝えると、康は怒っているのか喜んでいるのか
よく分からない声色で「ふざけんなよ、もう」と言ってきた。
スマートフォンをもぎ取られたのか、芽亜梨が電話に出てくる。
弥里に怪我がないことを伝えると、心底安堵した様子だった。
警官は須郷宗一と名乗った。
雄介に連絡先の書かれた紙を渡し、「しばらくは俺も処理で動けん。時間ができたら会いに行く。
この仮面のことも、君のその鎧のことも、放っておけるほど俺は楽天家じゃないのでな」と告げた。
須郷に本田ひなたちを任せ、雄介と弥里は電車に乗って自宅に向かっていた。
車内はほとんど無人だった。時間が零時を過ぎようとしているのだから、当たり前だ。
窓の外には夜のビル街が流れている。既にほとんど明かりは見えなかった。
凄まじい恐怖だったのだろう。弥里はしばらく、雄介の隣で泣いていた。
「帰り道に口を塞がれて、車に突っ込まれたの。そのあと、全然知らない場所まで連れていかれて。
手掛かりなんて残せなかったから、きっと誰も助けにこられないと思ってた」
弥里は雄介を見て、涙を流しながらも口角を上げて見せた。
「けど、来てくれた」
震える手をそっと握る。冷えた手に、自分の体温を分け与えるように。
「当たり前だろ。大事な人にあんなことされて黙ってたら、男に生まれた意味がない」
弥里がそれを聞いてくすりと笑う。
「雄介君って、そんな台詞を素面で言える人だったのね」
弥里の目に雄介の顔が映る。そこには、かつての死人はいなかった。
今はもう、自分が見過ごしたせいでアニムスの被害者が出るのが嫌だとか、そんな生温い動機はない。
あるのは、二度と失いたくないと思えるこの温もりだけ。
礼二は許してくれないかもしれないけれど、これだけは譲れなかった。
電車が揺れる。決して祝福されない、二人の時間を乗せて。
罪の徒花 モコイ @glasstask05
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