忘れていた日常
その日は土曜日で、学校が休みだった。
休みの日は大抵、食事の時だけ部屋を出て、あとは布団を被ってじっとしていたが、今日は違った。
シャツの袖に腕を通し、ジャケットを着る。
時刻は午前の八時だ。弥里たちとの待ち合わせの時間まで一時間はある。
だが、早めに出ておいて損はないだろう。
休みの日に出かけるなんて珍しい、と父が声をかけてくる。
「どうした、雄介。どこか行くのか?」
「うん、ちょっと、友達と待ち合わせしてるんだ」
素直にそう告げると、父は目を見開き、居間の奥にある寝室に走った。
「母さん! 雄介が! 雄介が友達と遊びに行くって!」
どたばたと騒ぎが聞こえてくる。
大げさだな、と雄介は苦笑しながら、ふと思った。
友達と遊びに行くなんて言い出すのは、小学生以来ではないか?
振り返れば、礼二が死んでからの五年間、雄介は死んでいるように生きていた。
生きていても死んでいても大差ない状態だったのだ。
どんな食事も虚しいだけで、食べることはほとんど作業と言って差し支えなかった。
それまで嗜んでいた音楽も聴かなくなった。
当時は大人ぶって、分かりもしない洋楽を聞いていたものだ。
甘い駄菓子や瓶ラムネが好きで、よく買い込んで礼二と一緒に食べていた気がする。
ゲームはロールプレイングからアクションまで幅広くやっていた。
サッカーが好きで、トレーニングシューズも買ってもらっていた記憶がある。
雄介はとても懐かしい気分に浸っていた。
誰かと待ち合わせをするなんていつぶりだろう。弥里は時間通り来るだろうな。
康は遅刻するかもしれないが、必死に走ってくるだろう。
芽亜梨も結構抜けてるところがあるから、案外寝坊していたりするかもしれない。
そこまで考えて、雄介は我に返った。
お前にそんなことを考える資格があるのか、と内なる声が問いかけてくる。
礼二を死なせたお前が、楽しく生きる資格なんてあるわけないだろう。
その通りだった。礼二が死んだあの時から、雄介は何一つ変わっていない。
まるで、時が止まってしまったかのように。
雄介は今を生きてはいなかった。その心は、未だに五年前の葬儀場にあった。
===
待ち合わせ場所は学校の正門だった。
時刻は午前の八時半で、集合まで三十分もあった。
「早いのね、雄介君」
誰よりも早く来ていたのは、弥里だった。
紺色のカーディガンを羽織り、その下に白いブラウスとベージュのパンツを合わせたシックな服装だったが、
落ち着いた雰囲気が弥里によく合っていた。
靴は涼しげな踵の高いサンダルだった。
「似合ってるね、弥里さんの私服」
思ったことを口に出すと、弥里は「誰かとこうして会うのなんて久しぶりだったから、
棚の奥から引っ張り出したの。いつもは真っ黒なのよ」と恥ずかしそうに言った。
「そっちも見てみたい気もするけど」
「よして。私だって、一応女なのよ」
一応もなにも、弥里は立派な女の子ではないか。
雄介は不思議に思いつつ、弥里の隣で残りの二人を待った。
康と芽亜梨はほとんど同じ時間に来た。約束の時間ぴったりだ。
特にトラブルがあった様子もなく、二人とも悠々とした様子でやってきた。
康はアルファベットのロゴが入ったパーカーとジーンズという服装で、
芽亜梨は黒いセーターと白のフレアスカートという装いだった。
「わたしは、こう、蹴ったりしますから。動きやすいほうがいいかなって」
芽亜梨がなぜか誇らしげに鼻を鳴らし、胸を張る。
胸元で隆起しているものから視線を逸らす。弥里もそうだが、芽亜梨も色々と無自覚だった。
「とりあえず、どこ行くよ。ここでずっと立って話してるわけにもいかないだろ」
康がポケットに両手を突っ込みながら、雄介を見た。
集まる約束をとりあえずしたものの、そのあとのことはあまり考えていなかった。
「私のアパートでいいなら、案内するわ。一人暮らしなの」
「まじか。でも、そこくらいしか内緒話できる場所ねえもんな。
どっかの店行っても金かかるし声聞かれるし、カラオケとかは監視カメラあるし」
「でも、大丈夫ですか? わたしたちがお邪魔しちゃって」
弥里は静かに頷いた。
それを見て、雄介は内心穏やかではなかった。
雄介とて男である。生まれて初めて女子の部屋へ行くとなって、落ち着いていられる男などいるものか。
===
電車に乗って三駅分揺られ、そこから弥里の住んでいるというアパートへ向かった。
駅前広場を横切り、商店街を通り抜けると、閑静な住宅街があった。
弥里のアパートは白く四角く、板を載せた豆腐のような外観をしていた。
一階の一番手前の部屋まで行き、弥里が鍵を挿して回す。
「上がって。あまり広くもないし、何もないけれど。あ、手洗いはしてね」
玄関の先には浴室の扉と台所が見えた。
そこそこのスペースがあり、自炊には困らなさそうだった。
奥には洋室があった。黒いカーペットが敷かれ、中央に背の低いテーブルと座椅子が置かれている。
他にもベッドや棚、クローゼットなども見受けられたものの、
弥里の人となりや趣味趣向が窺い知れるものはほとんどなかった。
お邪魔します、とややかしこまりながら康と一緒に足を踏み入れる。
芽亜梨は雄介と康が脱いだ靴をそそくさと整えていた。
台所で一人ずつ手を洗い、洋室に入る。
そこで雄介の目を引いたのは、部屋の隅に置かれた小さなウッドテイストの本棚だった。
様々な本が収納されていた。ハードカバーの図鑑やエッセイなどもあれば、小説もあった。
雄介はあまり小説を読まないので、背表紙のタイトルを見てもしっくりこなかったが、
一つだけ名前を知っているものがあった。有名な作品で、海外の作家のものだった。
『星の王子さま』というタイトルの小説だ。内容もとても不思議なものだった気がする。
弥里はこういう本が好きなのだろうか。
「ごめんなさいね、クッションか何かあればよかったんだけど」
弥里に促され、カーペットの上でテーブルを囲むように座る。
座椅子には部屋の主である弥里が座った。
向かいに座った康が、やたら黒いカーテンの向こう側を気にしていた。
「あっちってベランダっすか?」
「そうね。洗濯物が見えないように、真っ黒なカーテンを選んだの」
康が立ち上がろうとして、雄介と芽亜梨に足を抑えつけられた。ぐぬぬと康が唸る。
康、それだけはやってはいけない。雄介と芽亜梨は無言の圧力で康を戒めた。
まあ、気持ちは分かるが。自分も気になる。
「……見たかった?」
弥里が大真面目な顔をして雄介の目をじっと見てくる。
「え、あ、ええと」
雄介はどうすればいいか分からず、うつむいた。
首を縦に振ろうが横に振ろうが失礼に値する気がしたからだ。
体温が上昇し、鼓動が加速するのが分かる。
「もう、康先輩もふざけてないで。弥里先輩も雄介先輩をからかうのはそれくらいにしてください。
わたしたち、これからの話をしにきたんでしょ?」
芽亜梨の言葉で、その場の雰囲気が引き締まる。
そうだ。今日雄介たちが集まったのは他でもなく、アニマの使い道について話し合うためだ。
「外歩いてアニムス使いを探して回って、一人ずつ潰してくのか?」
康が「それは嫌だな」とあからさまに顔に出しながら言った。
確かにそれは非効率的に過ぎる。人目のない場所まで誘導するのも手間だった。
「ネットの掲示板を使おうと思う」
雄介はスマートフォンを取り出し、ブラウザを起動する。
「警察や周りに言えそうにない、いじめや暴力被害の声を募集するんだ。
警察に言っても信じてもらえそうにないことでも構いません、ってさ。
その中から、アニムス使いに繋がりそうな投稿を拾って、投稿者に接触する」
「まあ、そこそこ現実的ね。掲示板名とかはどうするの?
あと、接触するまでの過程も考えないと」
弥里の落ち着いた視線が雄介に投げられる。一応、そこも考えてはいた。
市川を病院送りにした日の、夕方の公園で四人で決意した時から、ずっと頭の中で思案していた。
「掲示板名は決まってないけど、接触する過程は考えてる。
投稿するときに、返信用のメールアドレスも送ってもらうんだ。
最近じゃフリーのメールアドレスも簡単に作れる。抵抗は少ないと思う。
考えたのはこれくらいかな」
雄介の話を聞いていた三人も、特に意見や反論はないようだった。
芽亜梨がばっと手を挙げる。相川芽亜梨さんどうぞ、と康がおどけた様子で言う。
「名前、ネモフィラっていうのはどうですか? いじめ・暴力匿名相談受付掲示板ネモフィラ」
康が首を傾げる。雄介もネモフィラという単語には聞き覚えがなかった。
学のない男衆に代わって弥里が人差し指をたてながら説明してくれる。
「ネモフィラも花の一種よ。花言葉は確か」
「あなたを許す」
芽亜梨が囁くように、その花の意味を口にした。
自分たちのアニマの花は暗いものばかりなのだから、掲示板の名前くらい希望があるものにしたい、
と芽亜梨は語った。
「いいんじゃねえか。それくらいはしてもばちは当たんねえよ」
「俺もいいと思う。それじゃあ、掲示板サイトへの登録は俺が後でやっておくよ」
許しの花。それはきっと、自分たちが欲してやまないものだろう。
もっとも、自分に関しては、二度と許しを得ることは叶わないのだが。
「というか、わたしたち、連絡先の交換もしてないじゃないですか」
芽亜梨がスマートフォンを取り出し、ほら先輩たちも、と急かしてくる。
四人でスマートフォンを操作し、一つのアプリを起動した。
ヘルメスというSNSアプリである。スマートフォンを使った連絡手段としては、
現代の日本ではかなりポピュラーなものだった。
チャット機能もそうだが、電話もできるのが便利だった。
父さん母さんとしか書かれていない寂しい連絡先リストを立ち上げ、各々のIDを言う。
軽快な電子音が鳴り、一気に三人分の連絡先が追加された。
だが、そこで問題が発生した。
「全員、アイコンが初期のままね」
「分かりにくいです……」
四人とも揃いも揃って、アイコンが灰色の人形となっていた。
メッセージの上には名前が表示されるものの、それでも紛らわしいことこの上ないだろう。
「みんな好きなもんとかねえのかよ、好きな漫画のキャラとか」
「康はあるのか?」
「ねえけどよ……」
雄介たちは仕方なく、それぞれのアニマと同じ名前の花の画像をインターネットで拾ってきて、
アイコンにした。なんだかんだと言って、分かりやすい。
「それじゃ、話も一段落ついたところで、目の前の問題に取り組みましょう」
弥里が座椅子から立ち上がると、ベッドの下の引き出しから教科書とキャンパスノートを何冊か持ってきた。
一体何をするのかと見ていると、弥里はノートから紙を剥がしていき、十枚ずつ雄介たちに配り始めた。
それからメモ用紙が一枚配られる。科目の名前と、教科書のページの範囲が書かれていた。
康が呻く。芽亜梨が小さく悲鳴を上げた。
「康君のことだから、定期試験の勉強なんてしないんだろうと思ってたけど、芽亜梨もだったとはね。
まあいいわ。ある程度は一、二年の科目も覚えてるし、教えてあげる。
ああ、雄介君もそう? なら、なおさら好都合ね。
これからアニムスを壊して回る前に、追試で動けなくなったら元も子もないもの」
弥里がちょっと楽しそうに唇を緩める。
雄介たちは観念して、弥里からボールペンを受け取った。
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