月桂樹(後半)
一度職員室に突撃してしっぽり絞られていた康を弥里と一緒に連れ戻し、
雄介は一年B組の教室で彼らと芽亜梨を引き合わせた。
淡い青色の目に、絹のような金髪に視線が行きがちだったが、
幼げな顔つきに日本人にはないような体つきが目に毒だった。
雄介はなるべく胸元に目が行かないように、芽亜梨の顔だけを見るようにしていた。
二人は芽亜梨が左足に履いている黒いロングブーツを見つめている。
「えっと、これ、月桂樹っていうらしいです。不思議な夢を見てから、出てきて」
「瞬間移動できるの?」
芽亜梨は首を横に振って否定した。
とんとんと左足を鳴らしたと思うと、その場で姿が消え、弥里と康が驚嘆の声を上げる。
今までいた位置から少しだけずれた場所に芽亜梨が現れ、そちらに視線を移す。
「このブーツで何かを踏むと、私にしか見えない足跡がつくんです。
その上に乗っかると、人の目とか、鏡にも映らなくなって。
足跡は半日くらいしか残らないんですけど」
「なんだそれ、男の夢じゃねえか」
康の後頭部を弥里がひっぱたく。
芽亜梨はくすりと笑いながら、それだけじゃないんですよ、と雄介の右手を握ってきた。
どきりと心臓が一際高く跳ねる。芽亜梨がもう一度月桂樹を履いた足を二回鳴らす。
芽亜梨が消え、あっと弥里と康が声を出した。
「おい、雄介まで消えたぞ」
康が目を丸くしているのを尻目に、弥里が雄介の頬に手を伸ばしてきた。
ぺたぺたと頬やら唇やらに、少し冷たい指が触れる。
柔らかい指先の感触に、雄介は心臓が止まるかと思った。
片や女子に手を握られ、片や女子に頬に触れられている。
「こういう風に、何かを掴んだまま靴跡の上に乗ると、一緒に透明になれるんですよ」
「まじかよ、まじで男の夢じゃねえか」
黙ってろ、と見えないのをいいことに康の額にデコピンを食らわせる。
康が仰け反りながら呻く。雄介は月桂樹が康のアニマではないことに心から感謝した。
芽亜梨が足跡から動いたらしく、透明化が解除される。
「なあ、それ貸してくれよ、後生だよお」
「いいですよ?」
芽亜梨がさも普通のことのように月桂樹に手をかけ、脱ごうとするものだから雄介は驚く。
そういえば、アニマを外そうとするとどうなるのだ? 思ってもみなかったことだった。
よいしょと長いブーツから足を抜いた、次の瞬間には月桂樹は消えていた。
見れば、芽亜梨の左足に月桂樹が戻っている。
康があからさまに落胆するのが見えた。へなへなと崩れ落ちる。
「こんなことしてる場合じゃないでしょう。市川先生を探さないと」
弥里の言葉に、芽亜梨がはっとする。
あたふたと慌てながら、雄介たちに事情を説明する。
今日も一人の女子生徒が市川を怒らせ、放課後の四時半に科学室倉庫に呼びされたというのだ。
時計を見ると、すでに四時半を回っていた。康が何も言わずに走り出す。
「私たちも行きましょう」
弥里に促され、雄介は芽亜梨を見る。
「市川先生に呼び出された子は、みんな不登校になっちゃうんです。
きっと酷いことをされているんだと思います。止めなくっちゃ」
芽亜梨は握り拳を作りながら、雄介に訴えかけてきた。
薄っぺらい善意や自己陶酔ではない、本物の使命感のようなものを感じた。
雄介は頷き、二人と一緒に康を追って科学室倉庫へと向かった。
===
康の背中が見えてくる。科学室倉庫の前に立ち、雄介たちを待っていた。
さすがに一人で突っ込むほど、頭に血が上っていたわけではないようだ。
行くぞ、と康が目で合図してくる。既にその右目は弟切草に隠れていた。
雄介たちも各々のアニマを呼び出し、構える。引き戸が開け放たれる。
そこには、棚が並ぶ中に立っているスーツ姿の市川と、座り込んでいる女子生徒がいた。
反射的に弥里と芽亜梨の前に立ち視界を遮る。女子生徒は上着を剥かれ、ワイシャツも半分開いていた。
市川がこちらを振り返る。白髪まみれの頭に痩せ細った体躯と顔は人体模型の骸骨を彷彿とさせた。
パンツは脱ぎ捨てられ、青いトランクスが露わになっていた。
眼鏡の淵には、細かくはあるがアニムスの柄が入っている。
「てめえ、クソ野郎が!」
康が市川目掛けて走り出す。
康の弟切草が発動したのか、市川は気味の悪いにやけ顔のまま硬直した。
これは決まったかと思ったが、康は市川までたどり着く前に倒れ伏した。
床に思い切り叩きつけられ、声も出さず、起き上がることもしない。
市川が動き出し、倒れた康を上機嫌そうに見下ろす。
「康!」
黒百合から影の手が伸び、康を引き寄せる。
康は怪我をしている様子はなかったが、何度も瞬きをするだけで、何も言葉を発さなかった。
いや、声が出ないのか? 意識はあるようだ。
弥里が屈み、康の首筋に触れる。康が跳ね起き、代わりに弥里が膝を突いたまま動けなくなる。
「あの野郎の目を見た途端、体が動かなくなりやがった。そういう眼鏡か?」
康がぜえぜえ息を切らしながら、市川から目を逸らす。
これは致命的かもしれない。恐らく、康の弟切草は相手を見ることで発動するアニマだ。
相手を見られないのであれば発動ができない。
弥里は動けず、芽亜梨の月桂樹も直接相手を倒せるアニマではない。
皆を守らなければ。雄介は市川の顔を直視しないように視線を落としながら、黒百合を起動した。
「合わせてくれ、雄介。俺が飛び込んであいつのボディに一発かます。その間に……」
「おっと、そこまでだ」
市川の低い声が狭い倉庫に響く。
反射的に市川の方を見てしまった。市川は果物ナイフを右手に持ち、
腰を曲げながら女子生徒の首筋に刃を当てていた。
体が動かなくなり、声が出なくなる。この感覚には覚えがあった。俗にいう、金縛りだ。
康も動けなくなったらしく、二人して固まっていると、市川はぶつぶつと何か言いだした。
「いつもそうだ。女なんて。汚いから見るな、なんて僕を罵るんだ。
だから、僕が女を汚してやるのさ。生意気な女を、二度と男に逆らえないようにさ。
そこの君、怪我が目立つけど可愛いねえ」
雄介は自分の中の琴線がぷつりと切れるのを感じた。
血管の中身がマグマに入れ替わり、思考が吹き飛ぶ。
あの野郎、殺してやる。
そう思った時、黒百合ががきりと音を立てた。
影が溢れ出し、地面に垂れ、そこから無数の剣やら槍やらが突き立つ。
どうやら、雄介の体の一部ではなく、雄介の意思で動く影は止められないらしい。
蠢く影に市川が怯えた声を上げる。
「な、なんだそれはっ! 近寄るな!」
市川が怒鳴り、体を震わせる。女子生徒の首から赤い筋が流れた。
雄介ははらわたを煮え繰り返しながらも、黒百合を止めた。影が崩壊し、音もなく消えていく。
「はは……そうだ、僕はこの力で幸せになるんだ。
誰にも邪魔させてたまるか……は?」
何かが落ちる音がする。市川が自分の右手を見やると、ナイフがなくなっていた。
市川のすぐ隣に芽亜梨が姿を現す。両手で市川を突き飛ばすと、
目を瞑りながら月桂樹を履いた左足を後ろに上げた。
「最低っ!」
左足が勢いよく振り抜かれ、市川の股間にめり込んだ。
およそ人のものと思えない表情をしながら、市川の体が宙に浮き、顔面から地面に落ちた。
鈍い音と共に、眼鏡が転げ落ちる。それを芽亜梨が左足で蹴り飛ばし、粉々にした。
金縛りが解け、三人同時に床に倒れこむ。
悲鳴も上げずにひくひくと痙攣する市川には目もくれず、泣き出した女子生徒を芽亜梨が抱き寄せる。
これは、救急車確定だな。
===
ちょうどその日は科学の実技があったらしく、芽亜梨は科学室倉庫に足跡をつけていたらしい。
市川は救急車で運ばれ、その後警察が女子生徒を連れて行った。
これはさすがにアニムスとかアニマとか関係なしに、婦女暴行で懲戒解雇だろう。
「実は、月桂樹って左足を強くする働きもあるみたいで。
左足で跳ぶと凄い浮いたり、蹴ったりしたらサッカーボールが破裂したりしました」
学校の近くにある公園で、ブランコに乗りながら芽亜梨が平然と恐ろしいことを言ってのけるものだから、
雄介と康は二人で苦笑いした。今後、芽亜梨だけは怒らせないようにしようと堅く誓った。
同じくブランコに乗りながら、弥里が「ボールだけに」などと言うので、さすがにそれはたしなめた。
夕陽も沈みかけている。そろそろ帰ろうと康が言い出すが、雄介は帰る気にはなれなかった。
「こうやって、アニムスを使って誰かを苦しめてる奴らって、あとどのくらいいるんだろう」
「きっと、たくさんね」
弥里が言い、それに康と芽亜梨も頷いた。
今もこうして、誰かに虐げられた者が、今度はアニムスを使って他の誰かを虐げている。
「多分、そいつらはこれから、一切何のお咎めもなく、好き放題生きてくんだと思う。
人を傷つけて、支配して、ぼろぼろにして。裁判になっても立証できっこない。
アニマとかアニムスだとか、世間が信じるわけがない」
「何が言いてえんだ?」
康が首をかしげる。雄介は、意を決して、自分の考えを口にした。
「俺たちにしかできないんじゃないか? アニムスを使って悪さをしてる奴らを止められるのって。
普通の人たちじゃ、あんなのには太刀打ちできない。警察や自衛隊なら話は別かもしれないけど、
動いてくれるとは思えない。俺たちのアニマなら、止められる。戦える」
なあ、礼二。これで許してもらおうなんてつもりじゃないよ。
けど、これが、俺にしか、俺たちにしかできない償いだとしたら。
「この後悔は、絶対に消えない。俺がそれを許さない。けど、一つ分かったことがあるんだ。
誰かを助けられた時だけ、ほんの少しだけ、安心できた。
それ以外に、意味のあることなんてないと思えたほどに。
この腕がある限り、俺の命がある限り、きっと俺はこういう生き方しかできない」
弥里がそれを聞いて、仕方ないわねと言いたげにため息をつく。
「確かに、私たちだけかもね。そんなことを思いつくのは。
私は協力するわ。この力を、誰かの苦しみを消すために使えるなら、願ってもないもの」
康も、まっすぐに雄介を見つめてきた。
「そうだなあ。俺が未だに生かされてんのはよ、多分、そのためだと思うんだ。
そのためだったら、俺は頑張れそうだ」
芽亜梨がにっこりと笑いながら、うんうんと頷いた。
「わたしね、酷い女なんだ。わたしの手は汚れきってる。
けど、だからこそ、手を伸ばせるものがあるんじゃないかなって思うの」
三人が雄介を見つめてくる。
「やろう。そして、見つけるんだ。俺たちだけの償いを。俺たちの力で」
そうだ。
これがきっと、俺たちがまだここに立っている、理由だ。
陽が沈んでいく。夜が来て、今日が終わる。そして、明日が始まる。
自分に明日などないと思っていた。今日を生きる資格などないと思っていた。
今は、違う。生きなければならない。
他でもない、この胸の内の罪を償うために。
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