弟切草(後半)
「よお雄介、一緒に帰ろうぜ」
勘弁してくれと目で訴えかけるが、康は一切気づく様子はない。
クラスの人気者の康が、昼行燈の雄介に堂々と話しかけてくるものだから、目立って仕方がない。
鞄を持って席を立ち、康と並ぶ。こうして並ぶと、雄介と康は頭一つ分は差があった。
雄介とて小柄というわけではない。一応173センチはあるのだが。
二人で教室を出て、正面玄関まで行った時だった。
ロッカーの前で立ち尽くしている女子生徒がいた。眼鏡の下の目は今にも泣きそうだった。
どうかしたのかな、と心配になる雄介をよそに、康が女子生徒に駆け寄った。
「どうしたんだ、おい」
康が剣呑な表情で女子生徒に尋ねる。
女子生徒はぶんぶんと頭を振るが、康は女子生徒から離れなかった。
やがて康が何かに気づいたのか、女子生徒の後ろのロッカーを見る。
「誰だ、誰にやられた」
そこにはずたずたにハサミか何かで切り裂かれたローファーがあった。
康は完全に冷静さを失い、女子生徒に詰め寄っている。
雄介は落ち着いていた。犯人なら、恐らくその辺りの物陰に潜んでいるだろう。
いじめなんてものは、加害者から見えないところでやられることなどは決してない。
誰かをいじめて尊厳を踏みにじり苦しむ顔を見て、
日頃の鬱憤だの他者への劣等感だの不安だのを慰めるのが、いじめという行為だ。
自分より下の人間を無理やり作ることで、極めてインスタントに精神的安定を得られる。
「康、後ろだ」
康が振り返る。雄介も一緒になって後ろを見ると、一部始終を見守っていたであろう女子生徒と、
その取り巻きと思しき男子生徒たちがこちらを見ていた。
白けた、萎えたと言わんばかりの表情で、雄介と康を冷たく見下している。
「とりあえず、屋上来なよ。ここで騒ぎ起こしたら、教師がうるさくて面倒じゃん?」
女子生徒が悪びれもせずに告げる。大きな目に整った顔立ちに酷薄な笑みを浮かべていた。
「上等だ」
康が鼻息荒く返答する。肩を叩き、こちらを見る康に頷いて見せる。
女子生徒のヘアピンには、見覚えのある柄が入っていた。
===
空は快晴で、落ちつつある太陽が屋上を緋色に染めていた。
園芸部が使用している菜園には、色々な花が植えられている。
雄介は至極冷静に状況を整理した。
相手はアニムス使いと思しき女子が一人、他は普通の男子生徒が三人。
男子生徒の方は貧弱というわけでもないが、康に比べれば屈強とも言い難い。
そちらは康に任せてしまっていいだろう。自分はあの女の相手をせねば。
相対するのも束の間、康が女子生徒目掛けて放たれた弾丸の如く駆け出した。
「よせ、康!」
女子生徒が口をすぼめ、何かを康に向けて吐き出した。
いや、あれはただの唾液か?
「うお、きったねえ!」
それを康は上体を後ろに逸らして避けた。相当な練習量が伺える見事な動きだった。
唾が屋上菜園の葉にべちゃりとかかる。
雄介は唾液が付着した葉を注意深く睨んでいると、すぐに異変が起こった。
葉が紫煙を上げながら腐り落ちていくではないか。
「なんだよ、これ」
康が愕然としながらそれを見つめる。
間髪入れずに、女子生徒が再び口をすぼめる。同時に取り巻きが康へ飛びかかった。
康は小さくバックステップして飛び掛かってきた男子生徒たちを躱し、
手近な男子生徒を左、右と顔面を素早く殴りつけた。いいワンツーだった。
男子生徒が一人地面に沈むが、残った二人は怯まずに突進してくる。
それがいけなかった。女子生徒の放った唾が、男子生徒の背にかかるのが見えた。
途端に男子生徒が青ざめ、口から泡を吐きながら倒れこむ。
さすがに片割れも焦ったのか動きを止めた。
体液を毒か何かに変えるアニムスか。雄介は片割れに「そいつら運んで逃げてろ!」と叫んだ。
恐怖と混乱からか、片割れは素直に従い、倒れた二人の腕を掴み引きずっていった。
黒百合の名を呼ぶ。右腕が影に包まれ、白い鎧が現れる。
女子生徒が意外そうに雄介を見た。だが、見下した態度は相変わらずだ。
再度唾が放たれる。康の肩を掴み後ろに引くと、右腕を立てるように構えた。
がちりがちりと板金が音をたてながら動き、溢れ出した影が巨大な盾を形成する。
康は混乱しながら、女子生徒と雄介を交互に見ていた。
「お、おい、いったいこれって」
「俺の後ろにいてくれ! 前に出たらやばい!」
後ろの康をちらりと見て、雄介は目を見開いた。
康の右目に、灰色の眼帯のようなものが装着されていた。
「おい、その眼帯」
「え」
康自身気づいていなかったらしく、右手で眼帯に触れ、唖然としていた。
だが、眼帯? アニマなのか? アニムスなのか? どんな力なんだ?
それが分からない以上、康を戦わせるわけにはいかない。
もしかしたら、弥里の彼岸花のようなタイプなのかもしれない。
女子生徒が甲高い笑い声を上げながら、ポケットから何かを取り出した。
黄土色の液体が入ったペットボトルだった。
「まさか……」
「うげえ、ばっちい……」
二人して辟易していると、女子生徒はペットボトルのキャップを回して開け、振りかぶった。
そこで、雄介は呼吸が苦しくなるのを感じた。ぜえぜえと肩で息をしながら、
強烈な脱力感に耐えようと足を踏ん張る。大きな盾を長く出しすぎたらしい。
ペットボトルの中身がぶちまけられ、それを盾で受けるが、それが限界だった。
影の盾がひび割れ、崩壊していく。だが、それは途中で止まった。
時間にして三秒にも満たない時間だが、盾の崩壊が止まった。
「なんじゃこりゃ」
後ろで康が素っ頓狂な声を上げる。
「なあ、眼帯越しでも見えるんだけど、なにこれ」
そう言って、康はこめかみを抑えた。いってえ、と呻いている。
一体何なのだ、康の眼帯はどういうものなのだ。
中身が少なくなったペットボトルを、女子生徒が投げつけてきた。
液体をまき散らしながらペットボトルが向かってくる。
そしておかしなことが起きた。また短い時間ではあるものの、ペットボトルが空中で静止したのだ。
中身の液体すら凍ってしまったように動かなくなっている。
「あぶねえ!」
康が雄介の服を引っ張り、横に跳んだ。
ペットボトルが動き出し、落下防止用の柵にぶつかる。
ぶちまけられた中身が植物にかかり、紫煙を上げた。
疲労困憊で立ち上がることも難しくなっている雄介を柵に寄り掛からせ、
康は眼帯にそっと触れた。
「……弟切草」
康はそう呟き、女子生徒に向けて走り出す。
焦った女子生徒が唾を吐きだそうと口をすぼめるが、毒液が康を襲うことはなかった。
そのままの姿勢で硬直した女子生徒に康は肉薄した。
女子生徒が動き出す。目と鼻の先まで来た康に驚いたらしく、慌てて唾を吐きだす。
康はそれを掻い潜るようにして避け、
三回ほど目にもとまらぬショートジャブをその顔面に叩き込んだかと思うと、
大ぶりのアッパーカットを顎に叩きつけた。
女子生徒がぐらりと揺れ、後ろに倒れる。
衝撃で髪飾りが外れ、雄介の方に転がってきた。
すかさず影の腕を伸ばし、それを握り潰す。
「はは……なんだこれ、超能力か?」
康は乾いた笑い声を上げながら、眼帯に触れていた。
「これが……この眼帯が三年前にあったなら……俺は……」
そして、膝を突いて蹲ってしまった。肩を震わせ、嗚咽している。
雄介には、かける言葉が見つからなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます