弟切草(前半)
弥里と知り合って一週間が経った。
あれから、普段と何ら変わらない日々を送っている。
黒百合もほとんど使っていない。というより、使っていたら問題だ。
この鎧は、恐らく常人相手であれば一方的に攻撃を与えられる。
石をも砕く影の腕など、徒に振るっていいものではない。
朝礼が終わり、教室に戻る。
雄介は黒百合を得る前に見た夢を思い出していた。
自分なりの贖罪の形が、あの影。
雄介は半分、その意味が分かっていた。自分があの時したかったことが。
あの夢を、礼二が死ぬ前に見ていたなら。あの時に黒百合があったなら。
だが、それに気づかないふりをして、思い出の箱に蓋をする。
それ以上は、考えてはいけない。あいつらは今も生きている。今からでも実行に移しかねない。
===
帰りのホームルームが終わる。
毎回教室の前で待たれていたら目立って仕方ないので、弥里には正門で待ってもらっていた。
鞄を持ち席を立つと、視界の端に男子生徒が女子生徒に囲まれているのが見える。
どうも女子生徒の飲み物を男子生徒が被ったらしい。
くすくすと軽薄な笑みを浮かべながら謝る女子生徒と、苦笑いする男子生徒。
その構図を見て、冷たい表情で歩み寄る男子生徒がいた。
短髪で血色がよく、背も高かった。彫りが深く精悍な顔つきをしており、目つきは鋭い。
名札を盗み見ると、嵯峨野とあった。いつも隣の席で賑やかに同級生と話している生徒だった。
「何やってんだよ、お前ら」
男子生徒は無感情に尋ねる。雄介は違和感を覚えた。
彼はいつも、誰に対しても朗らかで気が回ると友達も多いタイプの人間だった。
こんな声を聴くのは初めてだ。
「あ、康君! 違うの、これはね」
女子生徒が途端に目を煌めかせながら康を見る。
対する康は、女子生徒の態度に余程苛ついたのか、
おもむろに女子生徒の襟首に左手を伸ばし、掴んだ。
女子生徒の顔が恐怖に歪む。
「何やってんだって聞いてんだよ、俺は。
今、こいつにジュースぶっかけたの、わざとにしか見えなかったんだけど。
女だからって殴られずに済むとか思うなよ」
康が右手を振りかぶるものだから、その場にいた人間が総出で康にとりついた。
普段、我関せずを決め込む雄介すら康を取り押さえようとした。
やめろよ嵯峨野、どうしたんだよ、と周囲が心配そうな声を漏らしながら、ちゃっかり右腕を抑える。
「放せよっ! ふざけんじゃねえぞ、てめえ!」
康に振り回されながら、雄介は何でこんな目にと涙目になった。
===
ようやく落ち着いた康を、クラスの皆は置き去りにして帰っていった。
しかし冷たいものだ。普段はあんなに仲がよさそうにしているのに、
ちょっと暴れただけでこうも離れるとは。
「わりいな、えっと」
康が複雑そうな目をしながら、雄介の名札を確認しようとする。
「木場雄介。隣の席の地味な奴だよ」
「そんなこと言うなよ……俺は嵯峨野、嵯峨野康だ」
かっこわりいとこ見せちまったな、とようやく康は恥ずかしそうに笑った。
雄介は純粋な疑問をぶつけた。
「どうして、あんなにキレたんだよ」
「……ちょっと、色々あってな。ああいうの見ると、頭が真っ白になっちまうんだ。
なあ、よかったらジュース奢らせてくんねえか? 礼と詫びだ」
「いいよ、そんな」
「奢らせてくれって」
康が手をすり合わせて頼んでくる。雄介は渋々承諾した。
一階の食堂前の自販機まで二人で行き、炭酸飲料を二つ購入する。
「折角だし一緒に帰ろうぜ」
康はやけに雄介を気に入ったようだった。
皆がそそくさと帰ってしまった中、最後まで残っていたからだろうか。
人懐っこい態度に、少しだけ礼二を重ねる。そう感じると、雄介も邪険にはできなかった。
「まあ、いいけど」
「決まりだな」
二人で正門に向かい、そこで雄介は血の気が引くのを感じた。
見る見るうちに顔が青ざめていくのが分かる。
正門には弥里が立っていた。時計を見ると、下校のチャイムから一時間近く経過している。
ちょっと笑ってないか、あれ。何の笑いだろう。
普段大人しい人ほど、怒らせると怖いというのは通説だ。
走り寄り、頭を下げる。
「ごめん、弥里さん! ちょっと色々あって」
「構わないわ。それより、安心した。嫌われちゃって、もう会ってくれないんじゃないかって」
弥里は儚げに微笑む。どうやら本心で言っているようだ。
弥里を嫌うなんてとんでもない。少なくとも一度は命を救われたのだ。
「そんなことあるもんか。ああ、康。この人は東堂弥里さん。先輩なんだけど……」
康に振り返り、その表情を見て雄介は嫌な予感を覚えた。
ああ、これは面倒なやつだ。
「おいおい雄介、お前も隅に置けねえなあ。
ちょっと怪我してるとこが心配になるけど、結構美人じゃねえか。
なんだよ、付き合ってどれくらい経つんだ?」
「そういうのじゃないって」
「そうね、そういうのではないわ」
「なんだよ、つまんねえの」
康が口を尖らせながらそっぽを向く。
雄介は弥里がきっぱり否定したのに若干引っ掛かりを覚えながら、少し仕返しをしてやろうと考えた。
「そういう康こそ、浮いた話はないのか? あんなに女の子が一杯周りにいるじゃないか」
「ん……いや、彼女とか、そういうのは……な」
そこで康が「俺がそんな、偉そうなもん持てる人間かよ」と小さく呟くのを、
雄介は聞き逃さなかった。
「ホモなの?」
「おー先輩、いい度胸してんじゃねえか。そのスカート思いっきりめくってやろうか」
「やめろ」
にやつく康を肘で小突き、「いい加減帰ろう。日が暮れる」と促す。
結局、その日は三人で下校することになった。
終始康が騒ぎ、それを弥里が静かに見つめ、雄介が制止したりしていた。
こんなに声を出したのは久しぶりだ。
「じゃ、俺の家こっちだからよ。お前ら電車だろ? 不純異性交遊禁止だかんな」
「ないわね」
弥里が冷たく言い切る。雄介としては笑うしかない。
じゃあなと手を振りながら遠ざかっていく康を見送りながら、二人で駅に向かった。
「そういえば、雄介君はどういう風に暮らしているの? 家族とか」
弥里が質問してくる。自分の暮らしなどに興味などないだろうから、単純に話題に困ったのだろう。
雄介は両親と普通に二人で暮らしていること、分譲マンションの一室に住んでいることを話した。
「そう。ご両親と仲がいいのね」
「弥里さんは?」
「私は……一人暮らしよ。私、親があまり好きじゃないの。叔父さん夫婦の援助を受けながら、アパートに住んでる」
「そっか」
雄介はそこで大げさに驚いたりせず、自然に受けるよう心掛けた。
こういう時に過剰に反応すると、人は傷つくものだ。
「優しいのね、雄介君」
それを見透かしたかのように、弥里が雄介をまっすぐ見つめてくる。
弥里の視線は心臓に悪い。
本人に他意はないのだろうが、そこそこの美人にこうも見つめられると、男としては照れるというものだ。
駅に着き、ホームで電車を待っていると、雄介はある女子生徒を見つけた。
高見丘の制服を着ているが、髪が金髪なのだ。いや、若干白に近いだろうか。
かといって染めているようにも見えない。雄介は親近感を覚えた。
「あら、ああいう子が好み?」
弥里が真面目な顔で言うものだから、雄介は面食らった。
「違うって。あんな子いたっけかなって」
「有名人よ? 新入生の相川芽亜梨さん。フランス人とのハーフなんですって。もう何人も男子が撃沈してるって話」
「意外。そういうの詳しいの?」
「聞こえてきたの。私、友達いなかったから、そういうのは全部聞こえてきた話」
「悲しいこと言わないでよ」
「あら」
そうこうしているうちに、電車が来た。
二人で乗り込み、十分ほど揺られた後で、雄介が先に降りた。
「それじゃ、また明日ね」
「うん、また明日」
弥里が手を振ってくる。雄介は少し懐かしい気分になった。
礼二が生きてた頃は、こうして誰かと、また明日と笑いあったものだ。
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