彼岸花(後半)

 とりあえず、アニマを世間から隠す、悪用したり乱用したりしない、

なるべく今まで通りの生活を心がける、という方針で固まり、二人の会議は終了した。

 夕陽の光を背後に受けながら、二人で通学路の坂道を下っていく。

そういえば、誰かと一緒に下校するなんて久しぶりだな、なんて思っていると、弥里が立ち止まった。

すぐに雄介も立ち止まる。


「酷い」


 道路の脇に、猫が倒れている。ぴくりとも動かずに横たわっていることから、もう息はないだろう。

更に言えば、耳や瞼に何本か爪楊枝が突き刺さっていた。後ろ足もなくなっている。

腹の横には何か鋭いもので貫かれたかのような小さな穴が開いていた。

弥里が駆け寄り、手を伸ばす。


「おい、東堂先輩! そんなことしたら……」


 屈んでいた弥里が諦めたかのように立ち上がり、頭を振った。

猫の傷は依然としてそのままだ。弥里が血を流して倒れる様子もない。


「死んでしまってたら、だめみたい」


 雄介は安どのため息を吐き、それからずかずかと弥里に詰め寄った。


「何考えてるんだよ、それで先輩が死んじゃったらどうするんだよ!」


「何であなたが怒ってるの?」


 きょとんとした目で返され、雄介は言葉に詰まった。

何とか口を開く。


「……先輩が死ぬのは、嫌だ。これから先、一人ぼっちになっちゃうし。黒百合のこと話せるの、先輩だけだし」


「そう」


「そうだよ」


 雄介は意を決して猫の死体に近づき、爪楊枝を一本ずつ引き抜いた。


「役所に電話して、引き取ってもらいましょう。

かわいそうだけど、こんな鉄とコンクリだらけの街じゃ、埋めてあげられる場所なんてないだろうし」


「そうね」


 弥里の目は変わらなかった。どこか遠い目で、猫と雄介を見つめていた。


===


 次の日も二人で下校した。

深い理由があるわけではなかったが、あのアニムスだとかいうものを持った人間に襲われたとき、

一人より二人のほうがいいと思ったからだ。何よりも、弥里の彼岸花は自分の身を守れない。

右腕をそっと撫でる。何かあったとき、黒百合だけが頼りだ。

 曇り空の下、昨日猫を見つけた坂に差し掛かると、遠くから小さい悲鳴が聞こえてきた。

人間のものではない。犬か猫か、とにかく小動物のものだろうと思った。

弥里が声の方向に向かって走り出す。慌ててその後を追い、薄暗い路地に入る。

そこには血を流しながら地面に転がっている猫と、

それをサッカーボールのように蹴りながら笑っている子供がいた。

十歳にも満たないであろう男の子だった。変わった柄のキャップをかぶっている。

手に持っているのは割り箸で作られた輪ゴム鉄砲だろうか。


「邪魔すんなよ」


 子供は吐き捨てるように言うと二人を無視し、猫を蹴り上げた。小さな体が宙に浮く。

弥里が今にも突進しそうになるので、肩を掴んで引き止める。


「おい、クソガキ。弱いものいじめはそんなに楽しいかよ。だっせえな」


 わざとらしく鼻で笑う。予想通り、子供はきっと雄介を睨んできた。

この歳の子供は体裁や外面を酷く気にする。ださいであるとか、変であるとか、そういった言葉に敏感なのだ。

 子供が輪ゴム鉄砲を雄介に向けてきた。そんなもので何をする気なのか、と悠然と構える。

割り箸の引き金が絞られ、輪ゴムが発射される。そこまでは見えた。

右肩に熱を感じる。見ると、ブレザーの肩に小さな穴が開いていた。遅れて血が噴出する。

たまらず呻き声を上げながら膝を突く。熱した鉄の棒が突き刺さってるみたいだ。


「木場君っ!」


 弥里が悲鳴じみた声を上げ、肩に触れてくる。

痛みが引いていき、代わりに弥里が肩を抑えてくずおれる。

どうなっている。なぜ輪ゴム鉄砲が人体を貫通するのだ。

まさか、この子供もアニムスというものを持っているのか。

見れば、子供の被っているキャップには、あの男子生徒が着けていたリストバンドと同じ柄が入っていた。


「来い、黒百合」


 いつもの右腕を黒い影が覆い隠し、霧散する。

そこには大理石のように白い鎧に包まれた右腕があった。

板金が動き、影が溢れ出す。だが。


「あれ……」


 小さかった。出現した黒い腕はとにかく小さかった。自分の腕と同じくらいしかない。

もっと大きく、と強く念じても、それ以上大きくならなかった。

やがて、雲の切れ間に太陽が顔を出したのか、雄介たちの背を照らした。

途端に影が巨大な腕となるが、太陽が隠れると、また小さくなってしまった。

まさか、暗い場所だと大きい腕や盾は出せないのか?

 子供が輪ゴムを装填し、こちらに向けてくる。

迷っている暇はない。あんな凶器を頭にでも受ければ、死んでしまう。

その前に、あの子供から輪ゴム鉄砲を取り上げなければ。

右腕を振りかぶりながら地面を蹴る。まずは近づかないと話にならない。

子供は容赦なく、そこに輪ゴム鉄砲を放った。

右足の腿に衝撃を感じ、その場で倒れこむ。顔と胸を強打し、息ができなくなる。

足を見ると、また風穴が開いていた。勝手に喉が震え、痛みに泣き叫ぶ。

 子供が歩み寄ってくる。このままじゃ殺される。暗い場所では盾を出しても顔くらいしか守れないだろう。

涙をぼろぼろと流しながら、起き上がろうと必死にもがく。


「ん?」


 子供が立ち止まる。背後に気配を感じ、振り返ると弥里が立っていた。


「なんだよ姉ちゃん、殺されたいの?」


 弥里は何も答えない。雄介の傍に膝を突き、じっと子供を見据えている。


「何とか言えよ……そうやって俺のことをいじめたり無視したりするやつらはみんなぼろぼろにしてやった! 

散々俺のことを殴ってたお母さんもお父さんも血まみれにしてやった! 

そうなりたくなかったら謝れよ! 泣きながらそこの兄ちゃんみたいに土下座しろよ!」


 子供がポケットから何かを取り出した。おもちゃのナイフのようだった。

端が丸くなっており、物は切れず、突いてもしゃこしゃこと音を立ててひっこむおもちゃだ。

 だが、子供の手に取られた途端、おもちゃのナイフは見る見るうちに鈍色の鉄の輝きを帯びていった。

刃先が尖り、刀身が大きくなっていく。子供はその凶器を持って弥里に突進した。

弥里の手が伸びる。右手は雄介の背中に、左手は子供の胸に伸びていた。


「お願い、彼岸花」


 指輪が仄かな光を放つ。体から痛みが消え、痺れもなくなる。

目の前の子供が怪鳥のような悲鳴を上げながら倒れていた。

ズボンの腿の部分から血が滲んでいる。


「分かる? それが痛み。あなたが猫やこの人にやったこと。

その猫、まだ生きてるみたいね。お望みなら、その猫の傷も全部あなたに返してあげていいけど」


 子供の顔が痛みと恐怖に歪む。

弥里の目を見ると、雄介も総毛立った。あれは人殺しも辞さない目だ。

変わらず射竦めるようにして弥里が子供を睨む。


「確かに、お父さんもお母さんも、周りの子も許されないことをしたのかもしれない。

けど、それであなたが何をやっても許されるって思ったら大間違いよ」


 弥里は子供からキャップを剥ぎ取り、地面に投げ捨てた。


「雄介君、お願い」


 起き上がり、黒百合を起動する。

小さなナイフのような影の刀身を、キャップに突き立てる。

貫かれたキャップはやはり、霧となって消えた。


「その子は救急車でいいとして……」


 弥里が猫を見つめる。


「だめですからね」


「あら」


「確か近くに動物病院があったはずですから、そっちに運びましょう」


 子供の泣き声がけたたましく路地に響く。雄介は気が遠くなるのを堪えて、スマートフォンを取り出した。


===


 どうやら猫は肋骨を骨折していたらしい。

手術と三週間の入院代を含めて、凄まじい額を提示されたときは卒倒しそうになったが、

弥里はそれを普通に支払ってしまった。猫が診察を受けている間に引き落としてきたらしい。


「三年生になるまで、暇だったからずっとカフェでバイトしてたの。

そのお金を崩してきただけよ」


 帰るころにはすっかり暗くなってしまっていた。

二人で街灯の下を通りながら、駅に向かう。


「肩、大丈夫ですか」


 制服で隠れて見えないが、彼女の肩は包帯とガーゼでぐるぐる巻きになっていた。

コンビニのトイレを借りて応急処置をしたらしい。

彼岸花を使うようになってから、そういった処置に慣れてしまったそうだ。


「ええ。けどよかったわ。猫が助けられて」


 ふっと弥里の顔が綻んだ。目を細め、唇を緩めて。

その時、雄介は理解した。今日、自分たちは一つの命を救ったのだ。

紛れもない、罪に塗れたこの手で。


「東堂先輩」


「弥里でいいわ。あと、敬語もいらない」


「……弥里さん」


 弥里は少しだけ嬉しそうな声音で、「きっとこれから、長い付き合いになるわ。よろしくね、雄介君?」と、悪戯っぽく笑って見せた。なんだ、そんな顔もできるんじゃないか。

 雄介は静かに、そして何年振りかに、心からの笑顔を作ってみせた。

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