黒百合(後半)
下校のチャイムが鳴り、生徒たちが一斉に廊下に流れ出る。
鬱憤と解放感を携えた生徒の洪水だ。教師たちはたまったものではないだろう。
雄介は静かに荷物を整理し、下校しようと廊下に出た。
すると、視界の端で二人の男子生徒に腕を掴まれている生徒の背中が見えた。
ちょっと変わった柄のリストバンドをつけた、気弱そうな男子生徒だった。
雄介は直感した。自分が同じ経験をしたからかもしれない。
あれはきっと、これから体育館裏にでも連れて行って、哀れな彼で鬱憤を晴らすのだろう。
胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われる。気づけば、雄介は連れ去られていく生徒の後を追っていた。
案の定、二人の生徒は気弱そうな生徒を体育館裏に連れ込み、
爛々と目を輝かせながら暴力を振るおうとしていた。
建物の陰から窺っていた雄介は、自身の非力さが嫌になった。礼二だったら、迷わず踏み込んでいるだろう。
自分にできることと言えば、教師を呼んでやるくらいか。
このままじゃ殺される、くらいに言えば、さすがに怠惰な教師たちも動くだろう。そう思い、踵を返した。
悲鳴が背後から聞こえてくる。ああ、やっぱり。待ってて、今助けを呼ぶから。
そう思い振り返ると、そこには異様な光景が広がっていた。
気弱そうな生徒の前で、二人の生徒が倒れこんでいる。そこまではいい。
もしかしたら、あの気弱そうな生徒が何か護身術を習っていて、それで二人を叩きのめしたのかもしれない。
それなら納得できる。
目を疑ったのは、気弱そうな生徒の両腕が、鈍色の光を放っていたからだ。
最初は腕に装着するタイプの防犯グッズの類かと思った。
だが、違った。制服の袖ごと、男子生徒の腕が鉄のようになっている。
生徒がくつくつと笑いを漏らす。表情は醜く歪み、目には暗い悪意の火がちろちろと揺れていた。
雄介はそれを見て、背筋が凍るのを感じ、息を呑んだ。
生徒は倒れた二人組に歩み寄ると、おもむろに足を上げ、蹴った。倒れた男子生徒の体が跳ねる。
「お、おい」
さすがにやりすぎだ。あまりやりすぎると、そっちが警察の世話になることになるぞ。
そう警告しようと思って身を晒したのが間違いだった。
「なんだよ、お前。こいつらの仲間かよ」
「違う、俺はそんなじゃない。ていうか、なんだ。その腕」
男子生徒が近づいてくる。
まずい、完全に勘違いしている。このままじゃ自分まで殴られる羽目になる。
弁解しようと口を開いた、次の瞬間には男子生徒が目と鼻の先まで肉薄していた。
腹部に衝撃を感じ、視線を下にやる。鉄のように固い、というよりも、鉄そのものがめり込んでいた。
肺から空気が抜けていき、呼吸ができなくなる。ひゅうひゅうと音をたてながらうずくまった雄介に対し、
男子生徒は容赦なく顔に蹴りを入れた。
視界が反転し、地面に叩きつけられる。痺れるような痛みが鼻の頭から神経を支配しようとしてくる。
地面に大の字に倒れている雄介を見やり、男子生徒は満足そうに鼻を鳴らす。
「このリストバンドはね、神様がくれたんだよ。僕をあんな目に合わせた奴らを許すなってさ」
何を言っているのかわからない。リストバンドがなんだって?
靴底が胸に叩きつけられ、雄介はたまらず呻いた。
ふと、死を連想した。このまま殺されるのかな。それもいいかもしれない。あの世に行って、礼二に謝れる。
でも。でも、それで本当にいいのか? 礼二は本当に許してくれるのか?
まだ、この手は動く。できることがある。それがあるうちは、まだ。
足を外そうと右手を振りかぶる。振りかぶり、止めた。そこにあるのは、自分の知ってる右腕ではなかった。
白いのだ。指先から肩まで、白い鉄のようなもので覆われている。
男子生徒もそれに気づいたらしく、警戒するような眼差しを向けながら足を離した。
「それはアニマだ。彼のはアニムス。似てるようで違うものだ」
いつか夢で聞いた声が頭の中で木霊する。
「アニムスは被害者意識の具現だが、アニマは君の罪の意識の具現だ。君の願う贖罪を形にしてくれる。
さて、君の罪の花は、なんて名前だったかな?」
起き上がり、右腕を見つめる。不思議と重くはなかった。
西洋騎士の鎧にも似たそれは、今まで通りの右腕のように動いた。
「黒百合……」
「そう、黒百合。それが君のアニマの名前だ。さあ、使ってみるといい。
それは君の道を助ける。あらゆる障害を砕き、困難から身を守る」
そう言って、声は途切れた。
「そっか、お前もなんだ」
男子生徒の声にはっとなり、顔を上げる。
鉄の拳がすぐそこまで迫っていた。
反射的に右腕を上げ、拳を受ける。鈍い金属音が鳴り響き、腕が痺れる。
こんなもの、どうやって使えばいいのだ。困惑と恐怖に呑まれそうになりながら、
雄介は無我夢中で右の拳を振るった。狙いなどつけてもいない、稚拙な正拳だった。
当たるはずもない。避けられて、また鉄の拳を食らうことになる。
眼を瞑る。数秒後には、顔の骨が砕かれ転がっていることだろう。
だが、いつまでたっても、そうはならなかった。意を決して目を開けると、そこには倒れ伏す男子生徒がいた。
右腕に視線を落とす。白い鎧は形を変え、ところどころの板金がずれて、黒い何かが溢れ出ていた。
煙にしては妙だ。暗すぎるし、少し透き通っている。それにどうやら質量があるようだ。微かに重みを感じる。
しかし、どこか見慣れているような気がした。まるで影を立体化させたような。
男子生徒がゆっくりと立ち上がる。まだやる気か。
雄介は逃げ出したくなりながらも、その場に立ち尽くしていた。
この鎧が何なのか、あの腕が何なのかもさっぱり分からなかった。
けど、一つだけ確かなことがある。
今自分が逃げたら、この生徒は倒れた二人組をいたぶるだろう。
あの目は相当恨みをため込んだ目だ。死ぬまでやりかねない。
そうなったら。自分はまた、誰かを死なせることになる。
それだけはごめんだった。なによりも恐ろしかった。
男子生徒が地面を蹴る。殴り掛かってくる気だ。右腕で防御しようと、前に掲げる。
鎧の板金から質量を持った黒い何かが流れ出し、やがて形を成した。
昔ロールプレイングゲームで見た、盾のシルエットだ。それも雄介をすっぽり覆い隠すほど巨大な。
鉄拳が弾かれ、男子生徒が怯んで後ずさりする。雄介は何も考えずに、拳を振りかぶった。
盾が割れたガラスのように崩れ落ち、消えていく。
代わりに、巨大な黒い拳が右腕に連動するような形で現れていた。
「な、なんだよ、それっ」
狼狽える男子生徒をよそに、右腕に渾身の力を込めて振り抜く。
右腕自体は空を切るが、現れた巨大な黒い手は、確実に男子生徒を捉えていた。
男子生徒が鉄の腕で自身の体を庇うのが見える。
鈍い衝撃音の後、男子生徒が吹き飛ばされ、地面にたたきつけられた。
荒い息の中、なんとか意識を保とうと頭を振る。
あまりに現実味がなさすぎる。なんなのだ、この鎧も、あの腕も。
雄介は男子生徒の無事を確認しようと隣に膝をつき、
息をしているのを確認して、それから変な柄のリストバンドに目を付けた。
あの口ぶりからして、このリストバンドが腕を変貌させていたのだろうか。
このまま放っておくのも不安だったので、腕から剥ぎ取り、宙に投げる。
右腕の鎧から黒い剣のようなものが現れる。
それでリストバンドを一突きすると、両断されたリストバンドは地面に落ちることなく、
霧になってそのまま消えてしまった。
本当に何なのか。恐怖と興奮と混乱が未だ冷めず、雄介は泣き出しそうだった。
とにかく、男子生徒を保健室に連れて行かねば。いや、病院のほうがいいか?
救急車を呼ぼうと思いスマートフォンを取り出そうとしていると、後ろから足音が聞こえた。
振り返ると、女子生徒がそこにいた。雄介は大いに焦った。見られていただろうか。
いや、見られていなかったとしても、この状況を他人が見れば、確実に雄介を加害者と断定するだろう。
あたふたしていると、女子生徒は何も言わずに近づいてきて、雄介の額に指をつけてきた。
唖然とし、女子生徒の顔を見る。そして驚愕した。
自分の胸や腹から痛みがすっと消えていき、入れ替わるように女子生徒がうずくまってしまったのだ。
「ちょ、ちょっと、大丈夫?」
女子生徒は何も答えない。答えずに、今度は倒れている男子生徒に近寄っていき、首に触れた。
ついに女子生徒は地面に倒れ、転がった。慌てて走り寄り、助け起こす。
女子生徒は息も絶え絶えに「驚いた」と呟いた。
「あなたも、蝶々から指輪を貰ったの?」
「指輪? いったい何を」
そこでようやく、雄介は女子生徒の指に嵌められているものに気づいた。
赤い水晶のようなものでできた指輪が、仄かに光を放っているのを。
「もう、いやだ」
とうとう雄介は泣き出した。
体育館裏に倒れ伏す四人を尻目に、恥も外聞もなく泣いた。
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