第39話 ポーツマス条約

講和


後の陸軍記念日に制定された 3月10日、日本陸軍はロシアに奉天の会戦で勝利した。


後の海軍記念日に制定された5月27日に海軍は対馬沖でバルチック艦隊を撃滅した。


この2つの条件によって世界世論はロシアに対する日本の勝利を完全に認識したのである。


このことによって米国ルーズベルト大統領は前回はできなかった二国間の講和の仲介を取った。


これがいわゆるポーツマス条約である。

陸軍、海軍とともに勝ったと思っている日本はロシアに対して賠償金を取ることを考えていた。

この賠償金によって当時の国家予算の4倍にあたる国債を発行してまで捻出した戦費約20億円を返却できると計算していたのである。


しかし一方、はるか公主嶺まで退きシベリア鉄道の輸送によって戦力を増強させているリネウイッチ将軍率いるロシア陸軍はまだまだ「負け」と考えておらず戦争を継続する意思があった。


日本国内では一番講和に持ち込むのを妨げていた戦争継続を主張する小村寿太郎と桂太郎を源太郎が説得したおかげでスムーズに講和な向けて話が進められていったのである。


そして8月10日アメリカ東部のポーツマス海軍造船所で日本外相小村寿太郎とロシア全権ウィッテとのあいだで講和会議が始まった。


賠償金を必ずとってほしいと言う日本国民の要望を受けて小村寿太郎は席に着いたのであるが結局は下記の内容でロシア全権ウィッテに押し切られてしまったのである。


1 賠償金は支払わない

2 満州からのロシア軍の撤退

3 樺太の南半分の割譲

4 満州鉄道の利用権

5 朝鮮への排他的指導権

6 遼東半島の移譲


これが、まだまだ「戦う意志あり」のロシア政府に対してルーズベルト大統領の肝いりで成したギリギリの成果である。


9月5日、日露両国の間でポーツマス条約が締結された。


しかしこれを受けた日本国民はこの結果に不満を持ち、いわゆる「日比谷焼き討ち事件」が起こる。


この事件は日比谷に集まった群衆が暴徒と化して内務大臣官邸や警察署、日本新聞社などを襲い火を放つた騒動である。


戒厳令を出して取り締まりをしたことによって騒ぎはさらに全国的に広がりなんと約20,000人の逮捕者を出した。


最終的にはロシア正教会の建物を壊したり、ロシアとは関係ない西洋人の家に投石したりと言う秩序のない暴動に発展していった。


いかに日本国民が「裏切らた」という感情が強かったかがよくわかる。


早期の講和を主張して「軟派」と考えられていた源太郎の家もまた投石等の暴動の標的になると懸念されたが幸い暴徒が襲撃することもなく被害はなかった。


この時期、源太郎はまだ満州の公主嶺でリネウッチ将軍と対峙していた。

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