第40話 満州司令部 凱旋

1905年9月にポーツマス条約が調印されて日露両軍に休戦が成立した。


その後10月にポーツマス条約が批准され、ここに初めて正式に日露戦争は終結した。


やっと苦しく長い戦いが終わったのである。


ちなみに海軍は12月21日東京湾で連合艦隊の解散式を行っている。


司令長官・東郷平八郎は「連合艦隊解散の辞」の最後の一節「勝って、兜の緒を締めよ」で海軍の日露戦争を締めくくった。


さて陸軍である。


伊藤博文や渋沢栄一に対しての公約どおり「作戦の妙を得て6分4分の勝ち」を拾い矛を収めた源太郎たち満州軍は11月30日に無事大連から引き揚げ船に乗船したのであった。


かつて10年前に日清戦争時代に自分が設置した広島・似島の検疫所の検疫を満州軍は無事通過した。

12月7日、大山巌以下満州軍司令部の将軍たちを乗せた汽車が多数の万歳三唱の声の中、新橋駅に着いた。


この日の新橋駅には戦勝を祝う東京市民で足の踏み場もないほどの民衆が集まったといわれている。


源太郎と満州軍司令部の面々はその足で馬車に乗り宮中へ参内して明治天皇に凱旋報告を行った。


ここに陸軍の日露戦争は終わったのである。


明治44年生まれの私の祖母がよく歌っていた日露戦争の凱旋を語った尻取り流行歌がある。

私は子供のころに何度も聞かされていたので今でもよく覚えている歌である。


にっぽんの

乃木さんが

凱旋す

スズメ

メジロ

ロシア(ヤ)

山ん国

クロパトキン

金の玉

負けて溜まるはチャンチャン棒

棒で殴るは犬殺し

死んでも命があるように


で、また始めの「に」に戻り延々と続く歌である。


おそらく奇跡的な日露戦の勝利に国民が自発的に作った歌なのであろう。

当時の日本人の高揚した気持ちが伝わってくる。


しかしこの歌の出だしは児玉でも東郷でもなく「悲運の将」乃木の名前からスタートするところが興味深い。


田舎である四国・愛媛の八幡浜市の近くで育った祖母が歌っていたくらいであるからおそらくこの歌は当時日本中で流行したことは想像に難くない。


それくらい国民は影の立役者「児玉」よりも乃木の悲劇のスター性に惚れて孫子の代にまで語り継いだのであった。


誠に皮肉な話である。

しかし終始「黒子」に徹した源太郎はむしろ不器用で実直な乃木が自分よりも持て囃されることの方が良しとしたことであろう。

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