第36話 奉天会戦 2


源太郎の作戦では奉天駅を中心としたロシア軍司令部を右手では鴨緑江軍、左手には第三軍、この両翼でもってしっかり包み込んでしまおうという作戦であった。


またロシア軍主力の正面には砲弾を多く与えた第1軍(黒木)、第2軍(奥)、第4軍(野津)に両翼の動きと連動させて中央突破させる考えであった。


しかし「言うは易し」で現状はロシア側36万人と日本側24万人の兵士の人数差と弾薬の補給量の差そして何よりも兵の質の差が大きな問題であった。



ロシア軍側は一日2000名の「イキのいい兵士」を兵器と食料を携えてシベリア鉄道が毎日補給してくるのだ。10日があれば精鋭の一個師団が出来上がってしまう。


対して日本側は手持ちのカードを全て使い切り補填を内地で「畑仕事」をしていた老人で新たに軍を作らなければならない惨状である。


今の状況を例えると100人のスクラムを組んだ成人男子に対して60人ほどの小さな子供たちが手をつないで一列に包囲してるようなものである。しかも悪いことに、後方からは毎日成人男子が1人ずつ加勢に加わるのである。


つまりクロパトキンはその気になればどの地点からでも成人男性チームを突破させることが可能な非常に危うい包囲作戦であった。


さらに悪いことにクロパトキンにとって有利な環境がもう一つ備わっていた。

それは冬将軍であった。


ロシア軍は奉天司令部付近に旅順と劣らないコンクリートで築いた半永久の地下要塞を作っていた。

その地下要塞の上に被った土が冬のマイナスの温度によって凍土と化し「自然の鎧」を形成していたのである。


であるから正面の黒木軍の野砲が放った砲弾がこの永久凍土によって弾かれてしまい当初期待していた通りの効果が出なくなってしまったのである。


このことによって要塞を撃破して行われるはずであった正面軍の歩兵によるすみやかなる前進が阻まれてしまった。


一方この間乃木の第3軍はなんとか左手を長く伸ばそうとしている。

しかしこの行動は子供の遊びの「とうせんぼ」とまるで同じでも第3軍が包囲しようとすればするほどロシア軍もこれに呼応して翼を広げていくような格好になる。

自然にその線は細く薄く絹の糸のようになっていくのであった。



この奉天の会戦で勝敗をひっくり返す要因となった2つの事実がある。


1つ目は現太郎が旅順から引っ張ってきた28センチ榴弾砲であった。

移動して設置するだけでも困難を要するこの巨砲を旅順から6門移動させて即座に使用可能にしたのである。


当時の戦艦三笠の主砲が30センチ、8門であったので現太郎のこのアイデアは奉天の南側に戦艦を一隻置いたのと同じことであった。


この大口径砲はロシア軍の野砲の射程よりもはるかに長い7000メートルの遠距離で打つことができ、奉天の敵司令部を直接攻撃が可能である。

またこの砲の陣地は山中深くに築かれていて戦後までロシア軍は見つけることができなかったほどであった。


2つ目は1番左手の先端を担当した秋山騎馬部隊の働きである。あくまでも武力偵察の延長に過ぎない長沼挺身隊と長谷川挺身隊と言う2つの偵察部隊が鉄嶺を超えた場所まで偵察に長躯したのだった。

また彼等は単に偵察だけではなくロシア軍の軍事物資を蓄えた倉庫に火をつけたり、小規模な戦闘行為もしばしば行ったと言う。


このことが臆病なクロパトキン将軍の「退路を絶たれる」と言う発想につながったのだ。


3月2日、28センチ榴弾砲を含む多数の野砲と山砲でもって奉天の正面陣地の攻撃を行った。

凍土の鎧で守られた奉天地下要塞であったが28センチ榴弾砲のごうごうと鳴る飛翔音と破壊音でクロパトキン将軍は冷静に判断ができなくなっていたという。


この後に現太郎は正面方向への攻撃を実施したのであった。


しかし3月5日ロシア側は第2軍司令官、カウリバルス将軍が伸びきった乃木の第3軍と奥の第2軍の間に「隙間」を見つけてこれに対して大攻勢をかけてきた。


正面の軍と違い砲を十分に装備していない第3軍の第1師団に対して怒涛の攻撃をかけて来たのであった。


特に大石橋の戦いでは長い日本の陸軍史の中でも相当ひどい例として語られるほどの敗走に次ぐ敗走劇であった。


乃木は旅順でも「悲運の将軍」として名を馳せたがまたここにおいても旅順と同じように「悲運の将軍」の名をつけられることになる。


元来乃木はそういう「貧乏くじを引く星の基」に生まれついたのかもしれない。



このようにロシア軍にとっては非常に有利な展開になり第3軍も滅亡寸前まで押し込まれたにも関わらず「奇跡の3月7日」と呼ばれる状況が起こったのであった。


この日にまたクロパトキンの「悪い虫」が出てきて気が変わったのである。


秋山真之が放った偵察隊を1個師団と勘違いした報告がありこれにより退路を絶たれると勘違いしたクロパトキンが勝手に優勢にもかかわらず戦闘を中断したのであった。


この間隙を突いて中央を突破する日本陸軍の三つの軍は激戦という表現では生ぬるいような戦闘を繰り返して歩兵を前進した。


そしてまだ日本軍の包囲が完了していないにもかかわらずクロパトキンが例の臆病心によって3月8日に兵に退却命令を出して鉄嶺まで撤退してしまったのである。


まさに不思議としか言いようがない行為であった。

いずれにしても日本軍はまたしてもクロパトキンの優柔不断と臆病心によって救われたのであった。


しかし後がない日本陸軍としてはなんとかこの鉄嶺においてクロパトキンを殲滅したいという焦りにも似た気持ちがあったので第2軍が中心となってこれを追尾した。


撤退していくロシアの軍はもはや軍というような秩序が取れた集まりではなく、逃亡兵は出るは、窃盗は起こるはで軍隊秩序が皆無の「烏合の衆」に成り下がっていたという。


その証拠にこの退却時に戦闘時よりもはるかに多い25000名もの捕虜を出してしまったのである。


鉄嶺まで引いてもう一度反撃のチャンスを見るように命令したクロパトキンがあるが残念ながら首都のサンクトペテルブルグではそう理解しなかった。


クロパトキンに「敗軍の将」のレッテルを貼ったのである。


その証拠に奉天の会戦の後クロパトキン将軍はその敗走を理由に宮廷から司令官を解任されてしまうのである。


日本はよくても五分五分を考えていたのであるがロシア政府の判定で貴重な「勝ち点」を拾ったのであった。


このことによって列強各国は「判定待ち」の奉天の会戦を完全なる「日本の勝利」と位置づけたのであった。


ちなみに3月10日奉天の会戦、勝利の日はそれ以来、陸軍記念日として制定されたのである。

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