第26話 遼陽の会戦

源太郎率いる日本軍は8月にほぼ遼陽に集結し、南下してくるロシア軍に正対して東から第1、第4、第2軍を展開し終えていた。


当時の概念で「会戦」という定義はおよそ両軍が想定した場所に、両サイドから集結して人員と弾薬が揃い次第に大規模な戦闘を開始することを指す。


源太郎がこの地に引き連れた戦力は13万人、かたやロシア側は16万人、双方合わせて約30万人の人間同士がまさに戦わんとしていた。


大口径砲、機関銃などの近代兵器を揃えてのこの人数の戦いはおそらく近代史で初めての会戦である。


そのため両軍には各国からの観戦武官たちが「戦いの帰趨」を見学するために多く参加していた。


源太郎は第3軍のり旅順第一次総攻撃の失敗」と「一個師団にあたる兵の喪失」という暗い情報を得た直後に「三本の矢」を携えてロシア軍と対面していた。


この後、10日間の世に言う「遼陽会戦」がいよいよ始まろうとしていた。


遼陽会戦


年月日:1904年8月24日 - 9月4日


戦力 

日本  125,000人

ロシア 158,000人

死傷者

日本  23,615人

ロシア 17,900人


まずは黒木大将が率いる第1軍が東を迂回し、ロシア軍を側撃する作戦計画であった。


この戦いの直前、8月3日秋山好古率いる騎兵第1旅団は、敵情の偵察を行うように命じられ、遼陽会戦前まで敵情の偵察任務に赴いた。


この秋山少将率いる部隊は日本で始めて騎兵を組織した騎兵第1旅団を中心とし、そのほかに歩兵第38連隊、野砲兵第14連隊、騎砲兵中隊、工兵第4大隊第3中隊の複合型集団を構成しており、独立したこの戦力を「秋山支隊」と呼んだ。


8月24日、第1軍は紅沙嶺へ進攻し、同日午後には弓張嶺において第2師団が白兵での夜襲を敢行し、ロシア軍を駆逐し、第一線陣地であった同地を撤退させることに成功。


ここに遼陽会戦の火蓋が切って落とされた。


25日奥大将が率いる第2軍も進撃を開始し、正面のロシア軍を後退させる。


28日には源太郎は第2軍に標高209メートルの高地でもある「首山堡陣地」の攻略を命じ、30日には陣地への攻撃を開始するが、多くの兵の損害を出しながら戦況は行き詰る。


たかだか200mの山が落ちない。


30日深夜には第1軍が連刀湾から太子江を渡河して遼陽を迂回し、梅澤旅団とともにロシア軍第二陣地を攻撃。


正面の第2軍と連携して挟撃の体制をとった。


余談ではあるが当時の陸地の会戦というのはお互いに将棋の駒のように、2列で正対してスタートするが「薄い餃子の皮」のように相手を包み込むめば勝ちという考え方が主流であった。


相手も同じことを考えている。


もちろん一番難関の主力の正面部隊が突破できればそこから右と左とともに囲いこみ、餃子が2個できることになる。


この動きに対してロシア側は第1軍の側撃を予期していたものの、偵察の不備もあり日本軍の行動を捕捉できず、各軍団からの増派部隊で応戦した。


第1軍は饅頭山を確保し、主力戦ではロシア側の兵力抽出の影響もあり、9月1日にはついに難攻とされた首山堡を確保する。


9月4日、クロパトキンは退路の遮断を恐れ、全線に奉天への撤退を指令した。


源太郎は追撃を考えたが弾薬の消費量が予想以上で残弾が無いことと兵力消耗や連戦の疲労もあり追撃は行われなかった。



遼陽会戦は日本軍の勝利に終わり、遼陽入城に終わったが、遼陽駅を放火後撤退したクロパトキンは戦略的後退であると主張し、世界中に対して両軍が勝利宣言を行うこととなった。


死傷者は日本側が2万3500、ロシア側が2万あまりで、両軍あわせて4万人以上にのぼった。


日本軍では、8月31日に遼陽会戦の首山堡争奪において、橘周太第1大隊長が戦死した。


長崎県出身の橘少佐は、海軍における旅順口閉塞作戦において戦死した広瀬武夫少佐とならび、戦後に軍神とされた。


いずれにしても源太郎は旅順のことが頭の隅に残るもののロシア軍との最初の大会戦に勝利を収めることができたのであった。

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