第27話 旅順 第二次総攻撃 前半
このころの源太郎の頭の中はわかりやすく言えば「2つの皿回し」状態であった。
1つでも難しい曲芸の皿回しを同時に2ヶ所を行わねばならなかったからだ。
満洲軍参謀長の児玉の仕事は「旅順という皿」と「満州平野という皿」を器用に同時に落ちないように回し続けなくてはならない。
至難の技だ。
しかも満州平野の連勝が続くということは、北に進軍するのでこの2箇所の皿の位置がどんどん離れていくという焦燥感もあった。
次に2つの皿を落ちないように回し続けるための必要な弾薬および兵士の補充が心もとない状況も頭痛の種であった。
日露戦争当時の砲弾は大阪城の隣にある大阪砲兵工廠で製造されていた。
しかしここに大きな誤算があった。
大阪砲兵工廠で生産される砲弾の数が開戦前に大本営が試算した量と桁がひとつ違っていたからである。
10年前の日清戦争で使われた全砲弾量がなんと一回の会戦で消費された。
大本営は近代戦における砲弾の大量消費を理解していなかった。
この砲弾不足の事態にあわてて同盟国のイギリスに注文する始末である。
さすがの児玉も滅入ったことであろう。
まさに「泥棒が来て縄をなう」ような状況であった。
「せめて旅順さえ落ちてくれたら。これはもう1人ワシが必要じゃわい・・・」
さしもの源太郎もため息をついた。
まさに今、旅順の皿が落ちそうになっている。
第二回旅順総攻撃 前半戦
(明治37年9月19日-22日)
このころの要塞戦には二つの方法があった
1 兵士の数と勇気を頼った強襲法
2 塹壕を掘って地下から要塞に近づき爆破して突破する正攻法
である
正攻法への変更
第3軍は第一回総攻撃を歩兵の勇気と忠誠心に頼った突撃による強襲法で行ったが、これは砲弾数不足で十分な支援砲撃ができない中で、大本営からの「速やかなる早期攻略」の要請に応えようとしたためであった。
しかし目標の望台にはまったく歯が立たず兵力に大損害を被った。
乃木は攻撃方法を再考し、塹壕を掘って地下からの攻撃を目論む正攻法へ切り替える考えを固めたのである。
これは占領した盤龍山東西堡塁から要塞前面ぎりぎりまで塹壕を掘り進み進撃路を確保し、歩兵の進撃の際は十分に支援砲撃を行う方式であり、麾下の参謀に調査(地質や地形、敵情など)や作戦立案を指示した。
8月30日、軍司令部に各師団の参謀長と工兵大隊長、攻城砲兵司令部の参謀などを招集し、正攻法への変更を図る会議を行った。
しかし前線部隊の意見は砲弾不足などを理由に強襲法継続の主張が強かった。
この会議は6時間に及んだが、最終的には乃木の決断で正攻法に変更する事になり、9月1日よりロシア軍に近接するための塹壕建設を開始した。
対するロシア側も盤龍山堡塁を奪われたのは痛手だった。
8月30日にロシア軍はコンドラチェンコ少将の独断により盤竜山を奪い返そうと攻撃を行ったが、日本軍の反撃を受け攻撃兵力の3割を失い失敗した。
9月15日、第三軍はトンネル建設に目途が立ち、兵員・弾薬も充分ではないものの補充できた。
17日に各部隊に指示し、部分的攻撃を19日に開始するよう命令した。
今回は第1師団、第9師団が攻撃を担当し、第11師団は前面の敵の牽制を担った。
第1師団(東京)の攻撃
19日午前8時45分、攻城砲兵は敵牽制の砲撃を開始、午後1時には攻略目標である龍眼北方、水師営両堡塁に砲撃を集中した。午後5時頃、第1師団左翼隊は水師営第1堡塁への突撃を開始した。
しかし外壕の突破に手間取り大損害を被る。中央隊(歩兵第1旅団)は順調に進撃し、目標の海鼠山の北角を占領する。右翼隊はこの攻撃より海軍の要請によって目標に加えられた203高地攻撃を任される。しかしここも敵の猛射を浴びて大損害を被ってしまう。
20日、苦戦する左翼隊に第9師団が龍眼北方堡塁の占領に成功したという一報が入る。奮起した同隊は第4堡塁へ突撃を敢行しこれを占領、更に攻城砲兵が第1堡塁へ砲撃を開始し敵は沈黙、午前11時には水師営の全堡塁は日本軍の手に落ちた。中央隊も山頂で白兵戦をしつつも午後5時には海鼠山を占領した。
しかし203高地攻略は容易ではなく、なんとか山頂の一角を占領しつつも直後にロシア軍の大逆襲が始まり、午前5時には山頂を奪われたばかりか第2線も奪われ後備歩兵第16連隊長も負傷した。
その後第1師団は師団砲兵の総力を挙げて203高地を砲撃し、前線に幾度となく増援を送るも道中で敵陣地からの攻撃を受け前線に辿り着いた者はいなかった。
突撃は翌21日も行われたが効果がなく、結局は攻撃を断念する。担当した右翼隊の残存兵力は310名にまで激減していた。
第9師団(金沢)の攻撃
同師団は右翼隊(歩兵第18旅団)の歩兵第19連隊が龍眼北方堡塁正面を、歩兵第36連隊が同堡塁の咽喉部と背後の交通壕への攻撃を行う。
しかしここでも要塞側の反撃で大損害を受ける。しかし翌20日、攻城砲兵の支援砲撃を開始すると堡塁は瞬く間に抵抗力を失い、午前5時には攻略に成功する。
28センチ榴弾砲の投入
第一回総攻撃が失敗に終わった後、海軍軍令部の要請で東京湾要塞および芸予要塞に配備されていた旧式の対艦攻撃用だった二八センチ榴弾砲が戦線に投入されることになった。
「坂之上の雲」では伊地知参謀が「送るに及ばず」と言ったそうであるがこの言葉は定かではない。
通常はコンクリートで砲架(砲の台座のこと)を固定しているため戦地に設置するのは困難とされていたが、これら懸念は工兵の努力によって短縮されて克服された。
二八センチ榴弾砲は10月1日、旧市街地と港湾部に対して砲撃を開始。20日に占領した海鼠山を観測点として湾内の艦船にも命中弾を与え損害をもたらした。
しかし艦隊自身は黄海海戦ですでに戦力を喪失しており、この砲撃も劇的な戦果をもたらしたわけではなかったが、要塞攻撃にも効果ありと判断し砲を増やしていき最終的に18門が投入された。
対壕建設の再開と砲弾不足
三日間におよぶ第二回総攻撃前半戦での損害は
日本軍は戦死924名、負傷3,925名。
ロシア軍は戦死約600名、負傷約2,200名だった。
当時は28センチ榴弾砲の追加送付分が準備の出来る10月27日頃を総攻撃の日と考えていたが、各砲の砲弾の不足が深刻化しだしていた。
乃木は大本営に1門300発の補給を要請した(ちなみに当時要塞を落とす際に必要な砲弾数は1門につき1000発が基本的な数だった)が、補給を受ける事は出来なかった。
また10月16日にはロシア第二太平洋艦隊(通称「バルチック艦隊」)がリバウ港を出航した事を受け、乃木は砲弾不足を承知で第二次総攻撃 後半戦を行わざるを得ない状況下におかれた。
日本軍にとって「時は味方しない」という現実と旅順の皿が今にも落ちそうな状況を見て源太郎は今更ながら旅順に対する認識の甘さを痛感するのであった。
もう一枚の皿である満州軍は北進して重要拠点である沙河の近くまで進軍していた。
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