第24話 第3軍 乃木希典



次に源太郎の放った「第3の矢」の話になる。


源太郎が多くの市民の見送りを受ける日から少しさかのぼること明治37年(1904年)6月6日、乃木希典大将率いる第3軍はかつて奥大将率いる第2軍と同じ上陸地の遼東半島の塩大澳に上陸した。


第3軍の構成と出身地は以下である


司令官 乃木希典大将(長州)

参謀長 伊地知幸助(薩摩)

副参謀 大庭二郎中佐(長州)


第1師団(東京) 伏見宮貞愛親王中将

第9師団(金沢) 大島久直中将

第11師団(善通寺) 土屋光春中将


第2次攻撃以降の増援


第7師団(旭川) 大迫尚敏中将



出征前の6月6日、広島市内において乃木はすでに長男の勝典が南山の戦いで戦死したことを知っていた。


新聞でも報じられた乃木大将の不運を国民は厳粛な気持ちで聞いたという。


同日、乃木は源太郎らと共に陸軍大将に昇進したが長男の戦死と自分の大将昇格を同じ日に接して複雑な思いであったことであろう。


広島・宇品港から出港して塩大墺に上陸した第3軍は旅順攻略のために6月26日から旅順半島に向けて進軍を開始した。


まさに奥の率いる第2軍が得利寺の戦いに勝ち陸軍内に連勝機運が高まるころのことである。


ここに乃木が直面した不運が5つあった。


1 源太郎をして

「旅順など竹矢来でも組んでおけばいい」

と言わしめたほどに参謀本部では旅順要塞を安易に考えていたこと。


2 10年前の日清戦争時には乃木自身がわずか1日の戦闘で清兵が守る旅順要塞を落としたこと。


3 緒戦で消費された砲弾の量が計算とは一桁違い、日本から送られる砲弾の量がまったく追いつかなかったこと。


4 バルチック艦隊回航という海軍の時間的要素を考えねばならなかったこと。


5 第2軍が南山の戦いで分断したロシア兵2個師団が旅順に逃げこみ、当初より旅順要塞を守る兵力が増強したこと。


慢性的に乃木は以上の5つの不運と戦うことになった。


つまりここに悲劇の元があったのである。


ここで乃木に攻略を課せられた旅順要塞の歴史と概要を述べる。


19世紀後期に清国は旅順に海軍・北洋艦隊の基地を置き、その防衛のために旅順を要塞化した。


日清戦争では乃木が率いる日本軍の猛攻撃を受け、1895年11月下旬に旅順口の戦いとなったが、清国軍の士気は極めて低く1日間の戦闘で陥落した。


その後日本海軍は旅順軍港に旅順口根拠地を置いた。


日清戦争後の下関条約では遼東半島は日本に割譲されたが、三国干渉の結果、清に返還された。


代わってロシア帝国が清から遼東半島を租借すると、旅順はロシア帝国海軍の太平洋艦隊の基地として使用されることになった。


この時に旅順要塞はロシア陸軍の手によってべトン(コンクリート)100万樽による外壁の強化と機関銃の導入など大規模な強化が行われ、望台、二竜山堡塁、松樹山堡塁、東鶏冠山北堡塁など強力な陣地が設置された。


またおのおのの陣地は地下の坑道で繋がっており敵の攻撃で弱点ができるとすばやく兵を送り込み増兵と弾薬の補給が可能になっていた。


また仮に一箇所の防衛網が破られたとしてもそれを囲むように配置された魚の鱗のような砦が包囲して集中砲火を浴びせるシステムが構築されていた。


また強固なのはハード面だけではなく旅順要塞を指揮するコンドラチェンコ少将が工兵上がりで最初から要塞の構築に携わっておりその部下思いの性格は兵からの嘱望も熱い優秀な指揮官であった。




いずれにしても塩大墺に上陸した第3軍は少ない情報と弾薬しか与えられずにこのような鉄壁の旅順へと行軍するのであった。

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