第23話 満州軍創設
源太郎の放った1の矢が遼東半島の付け根を急襲し、2の矢が南山の会戦で勝利した同時期に日本国内で頭の痛いことが起こった。
10年前の日清戦争時に大本営は戦況のわかりづらい東京よりもむしろ軍都であった広島がよかろうという意見で広島城内に大本営が移動した経緯がある。
つまり2年間広島は首都になった歴史があるのである。
同様に今回の日露の戦いも大本営を漢城か平壌に移すべきという案が山県有朋を中心に急遽持ち上がったのである。
そうなれば臨時的にも日本の首都はどちらかに移動することになる。
まして今回の戦いは日清戦争とは違い満州の原野が主戦場になるのでより細かい作戦指導が必要である。しかし重要なときに海底電線がロシア艦隊に切断されては統率系統が孤立するという問題も提起された。
これを受けた海軍は
「わが艦隊がそんな暴挙を許さない」
として大本営の移動を反対しここに陸軍と海軍の意見が真っ二つに分かれたのであった。
ここで源太郎は悩んだ。
敵はロシアではなく同じ日本国内にいるとすら感じたことであろう。
結果的には源太郎は海軍の意見に同調して大本営の移動に反対したのであった。
さらに大本営とともに一緒に移動するであろう皇太子(後の大正天皇)には「満州の平野では殿下が来るのを待ち受けている馬賊どもがいます」
とも伝たという。
このような状況で源太郎が考えた案は大本営を東京に置きながらの出先機関の設置であった。
おそらく名誉と肩書きだけが欲しい山県有朋さえ黙らせばなんとかなるという計算であった。
その結果、得利寺の会戦直後の6月20日に生まれたのが「満州軍総司令部」であった。
戦線の移動に伴い移動する司令部でトップの司令官が大山巌、参謀長が源太郎が担った。
お飾りに祭り上げられた東京の大本営は参謀長が山県有朋、参謀次長に源太郎と同郷で山県を押さえられると踏んだ長岡外史がこれを担うことになった。
まさにていのいい「留守番役」である。
いずれにしても絶妙の折衷案でうまく陸軍内の軋轢を回避した源太郎であったが参謀長となった以上は当然大山とともに外地へと赴かねばならなかった。
もっともこれは源太郎が最初から望んでいたことである。
6月23日源太郎を含む満州軍司令部は新橋駅から大勢の見送りを受けて出征したのであった。
旅情要塞攻撃の二カ月前のことである。
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