第18話. 八甲田山遭難事件
源太郎がこのように政界、財界を説いて日露の開戦を説得している同時期に青森県ではとんでもない事件が勃発した。
「八甲田山 雪中行軍事件」である。
映画にもなった有名なこの大事件であるが真相はこうである。
青森の第8師団では日露が開戦になった場合の最悪の状況を想定した。つまりロシア艦船が津軽湾に進入し、その艦砲射撃によって東北本線が破壊、分断された場合、冬季の情報と輸送の確保のために八甲田山越えができるか否か検討するために雪中踏破訓練を行った。
1902年1月、青森第8師団の2つの部隊がそれぞれ現在の青森市と弘前市からほぼ同じ日に出発し、豪雪の八甲田山中で出会うはずだったのだが、人数が多かった青森第5連隊が210名参加して199名が凍死のためにほぼ全滅、かたや少人数で長距離を歩いた弘前第31連隊は全員無事で完全踏破したというものである。
全滅した青森第5連隊は秋田県出身の神成大尉が指揮官で大隊編成の210名を率いて「雪中における軍の展開、物資の輸送の可否」を研究するために2泊3日の予定で青森市を出発した。
一方の弘前第31連隊は福島大尉が指揮官で中隊編成の37名の少人数を率いて「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」を研究するために11日の行程で弘前市を出発した。
2つの連隊の指揮官はともに優秀でこの行軍を成功させるためにお互いに夏から八甲田山に入り木の高い部分に紐をしばり目印をつけたり、山の姿を描きとめたりと準備を怠ることはしなかった。
しかし不運なことに準備万端であった青森第5連隊では出発が近づいたある日、全く山岳経験のない山口少佐という上官が「絶対指揮に口を出さない」という条件つきで見学と言う立場で参加することになったのでである。
これがそもそもの不運の始まりであった。
最初は口を出さない約束であったにもかかわらず山口少佐は四方何も見えない白銀の世界で不安になったのか自分の拙い考えを出すようになり指揮系統を狂わせてマイナス20度の吹雪の中で210名を部隊は立ち往生させてしまったのである。
さらに、せっかく夏から入念な計画をして案を練った神成大尉の意見を全く無視してまちがった進路をとりついに部隊は全滅してしまったのだ。
一方、弘前第31連隊は、福島大尉が自分の判断で責任を持って夏から山の形や道などの実地調査を行い、その結果行軍も200km近い全行程を一人で判断して指揮できたので成功したのである。
この事件当時、源太郎は陸軍大臣の立場であったが、この悲報に接するや否やことの真相解明を待たずしてすばやく遺族のもとに弔電と慰霊金を渡して遺憾の気持ちを伝えたとされている。
このような素早い陸軍大臣の反応に悲嘆に暮れていた遺族たちはその悲しみを半減させたと言う。
この話しからもまた彼の持つ際立った行政能力の一端を垣間見ることができるといえよう。
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