第17話 閑話休題 徳山 2



駅前のホテルに荷物を置いたあと、おそらく児玉源太郎が毎日歩いたであろうこの街の探索をおこなった。


標高400mくらいであろうか、穏やかな山並みがこの南北3km、東西5kmのコンパクトな街を見下ろしている風景を見て「この街が若き日の源太郎を育んだ街か」と目を閉じて150年前を想像しながら歩みを進めることにする。


前述の駅前から伸びる銀杏並木に沿ってなだらかな坂を上ると「毛利町」というかつての藩主の名前を冠した地名に出くわした。


さらにその坂を上りきると昔は広大な毛利藩邸があったとされる徳山動物園という案内表示が見えてきた。


徳山動物園は北部エリアと南部エリアに分かれており周南市内はもとより山口県内から多くの観光客や児童を集客する50ヘクタールの広大な土地を持つ動物園である。


この時も近くの幼稚園児であろうか緑の帽子をかぶったたくさんの子供たちが見学に来ていた。


さらにこの動物園の上に小さな公園がある。標高は70mくらいであろうか高台にあるこの場所からは眼下に煙を吐く重化学工業地帯の徳山の街がすべて俯瞰できた。


動物園の西隣には一際目立つ建物がある。

この建物は周南市文化会館というそうでなんでも「西日本一の音響舞台設備」を備えているらしい。


その設備のよさのため日本中から年中、有名な歌手や楽団が来てコンサート会場として使われ多くの観客が集まるのが徳山市民の誇りであると聞いた。


今度はその自慢の周南市文化会館を右に見ながらゆっくりと坂を下りていく。


かつてはこの坂を藩邸を目指して多くの武士たちが上り下りをしたことであろうと想像すると感無量であった。


大きな通りを越えると綺麗に碁盤目のように区画された地域に入る。


おそらくは徳川時代は武家屋敷であったろうと思われるような昔風のたたずまいの家が散在する中にも新しいマンションやレストランが目に付く。


次に大きな通り面したときに小学校があり休み時間であろうか大勢の子供たちの元気のいい声が聞こえてきた。


校門を見ると「徳山小学校」と書いてある。


この徳山小学校のすぐ横に今回の目的地のひとつである児玉公園があった。このあたりの町名を児玉町という。


公園の中には子供たちが遊べる広場と簡単な遊具が設置してあり、一番南側に軍帽を脱いでりりしく立つ児玉源太郎の銅像があった。


公園の北側にある階段を上がったところに大正11年に神奈川県江ノ島にある児玉神社の神殿を移築して造られたという児玉神社の社があったので持参した日本酒を奉じて手を合わせる。


この神社の祭神が本書の主人公、軍神・児玉源太郎である。


現在は毎年旧陸軍記念日である3月10日に祭典が行われると聞く。


余談ではあるが日露戦争後に軍神となって神社で祀られているケースは全国で5つある。


東郷平八郎 大将・・・東郷神社(東京、福岡)

乃木希典 大将・・・乃木神社(東京、栃木、京都、下関)

児玉源太郎 大将・・・児玉神社(徳山、江ノ島)

広瀬武夫 海軍中佐・・・広瀬神社(大分)

橘周太 陸軍中佐・・・橘神社(長崎)


神社参拝のあとに坂道を上ると児玉公園からそう離れていないところに「児玉源太郎生誕の地」という看板を見つけて入ってみることにする。


看板の説明によるとかつて源太郎が生まれた時の産湯に使った井戸があった。


おそらく彼が幼少時に毎日使ったであろう井戸の横にベンチがあったのでかなり歩いた疲れを癒すためにしばし休息をとった。


目をつぶってみると幼少時の元気な源太郎が大声を出して走り回っているような錯覚に陥る。


この地はかつて源太郎が日露開戦風雲急を告げる1903年に徳山の子弟の教育ために、皇室からいただいた金一封と私財を投げ打って作った「児玉文庫」があったところでもあるが残念なことに1945年7月26日の海軍燃料廠を狙った米軍による空襲によって全ての蔵書とともに消失したと聞き及ぶ。まことに遺憾である。


ここからさらに駅の方向に向かって緩やかな坂を南下して歩き宿泊しているホテルまで戻ってきた。


幼少期の源太郎に想いを馳せながらゆっくりと休息を交えて歩いた時間がざっと4時間あまりであった。


非常にコンパクトな街である。


かつては海軍燃料廠があったころや出光興産が最盛期のころには駅の右手の商店街には多くの映画館や色街があり広大な繁華街を構成していたと聞く。


また商店街の中には大阪の近鉄百貨店も進出していたそうであるが今や大資本も撤退して「つわものどもの夢のあと」という感じは否めない。


しかしそのような商店街でも夕方食事をしに行ったときには「源太郎」という名前の居酒屋を見つけて昼間行った児玉公園も含めて徳山市民の心の中にまだ児玉源太郎が息づいていて大切にされていることを確認したことを記したい。


また日露戦争時の大本営での留守役を守った長岡外史少将もこの徳山の近くの下松市出身である。


満州軍参謀長として満州に赴いた児玉は東京の大本営にいるうるさ型の山県有朋との難しい調整役を長岡に全部任せたのは同郷から来る信頼感の現われであった。


太平洋戦争関連としては前述の大和の最後の寄港地として紹介したが、真珠湾攻撃で空母蒼竜の分隊長として参戦しハワイ・カネオヘ海軍基地にて敵弾を受けて自爆、米軍の倉庫・施設に損傷を与えた飯田房太中尉も徳山中学(現在の徳山高校)出身である。


また徳山港から船で30分ほど南に行ったところにある大津島では太平洋戦争末期の特攻兵器「人間魚雷・回天」の訓練基地のあとが今も残されている。


昨今は「温故知新」の言葉に倣い歴史探訪を兼ねて日本の史跡を回るツアーが多いと聞くがぜひ一度徳山にも訪れていただきたいものである。

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