第13話 日清戦争



このころ「陸の長州、海の薩摩」という言葉があった。文字通り陸軍は山県有朋を頂点として多くの長州人が上層部を占めており海軍は西郷隆盛の実弟西郷従道が海軍大臣となり山本権兵衛が権力を振るう完全な薩摩閥であった。


日清戦争時には源太郎は前線で刀を振るう役回りから主に後方の支援を担当した。


つまり攻撃業務から守備業務を任されたわけである。


おそらく彼の能力としては日清戦争の前線でも大きな武功を上げられたであろうが神は、今回は源太郎を戦闘の場面には出さずにあえて「後方支援」というプログラムを課した。


戦闘、戦術という項目は不平士族の乱で及第点以上の優秀な成績であったがための配剤であろう。


現在の韓国が舞台となった日清戦争の戦闘そのものは同郷である山県有朋が第2軍司令官となり遼東半島に上陸して部下の乃木希輔が俄か作りの旅順要塞を一日で陥落させている。


源太郎の日清戦争時の功績は「戦闘行為」というよりむしろ「防疫業務」に特化された。


かつて豊臣時代に朝鮮征伐の折に韓国に渡った武将たちが多くの病気にかかって帰ってきた歴史がある。とくに加藤清正の梅毒は有名である。


戦争というものは相手の国に行き、目に見える敵と戦闘をするだけでなくその地にある目に見えない病原菌との戦いであることを源太郎は知っていた。


この場合の病原菌とはずばり当時遼東半島に蔓延していたコレラ菌である。


特に日本は島国であるから大陸の未知の病原菌を国内に持ち込むことがいかに国民の弊害になるということを知っていたのであるが、いかんせん彼はその専門家ではなかった。


そこで後藤新平という東北出身の病理学者を招聘してこの「防疫」の任務に当たらせたのである。


日清戦争に勝利した23万人の日本軍は意気揚々広島の宇品港に凱旋した。すべての将兵は早く郷里の地を踏みたくて広島市が見える輸送船上で地団太を踏んで待っている状態であった。


しかし源太郎は広島市内への上陸を簡単には許さなかった。困難な戦争に勝利して早く目の前の故郷の地を踏みたくてうずうずしている将兵に対して宇品港の隣にある似島の検疫所でコレラ菌の検査を一人一人強要したのである。


このときに源太郎よりも階級が上の将校がこの行為に憤り、

「児玉、階級の上のこのわしまで下らないことで足止めをするのか!」

と軍刀を抜いて恫喝する場面もあった。


なにしろ一度に23万人の検疫であるからかなりの日数を要する作業である。


しかし1人でも検疫を逃すことは23万人を検疫するする行為そのものが無に帰する。


そこで源太郎が考えた結果、皇室出身の将校にまず検疫をさせた。


「皇室出身の宮様将校ですら検疫を行っているのだ。黙って順番を待て」と言って激怒する将校を黙らせたというエピソードが残っている。


このようにその場の困難を回避するために使えるものは皇室でも使ってしまうあたりの考慮の深さが源太郎の真骨頂である。


後藤新平


源太郎は佐賀の乱で入院した時以降、懇意にしていた石黒軍医長の紹介で後藤を知ることになるのであるが後藤新平とはどのような人物であったのであろうか。


1857年仙台藩水沢城の下で生まれた後藤新平は源太郎の5歳下に当たる、13歳で書生として県庁に勤務後15歳で上京。ちなみに後藤は高野長英の姻戚に当たる。


16歳で政治家を目指して福島洋学校に入学したが翌年17歳で須賀川医学校に入学。卒業後は福島県令を勤めていた安場が愛知県令を勤めることになりその勧めで愛知県立医学校で医者となる。


その後24歳にして学長と病院長を兼務するほどの優秀な成績であった。


彼の業績のひとつとして医療による海水浴の推奨がある。


岡山で医療目的の海水浴施設沙美海岸に次ぎ兵庫県須磨海岸、神奈川県富岡海岸など日本中に海水浴場を開設した実績がある。


1882年(明治15年)に愛知県医学校での実績を評価されて源太郎の友人であった石黒軍医長の推薦で内務省衛生局に入り病院・医療行政に携わることになる。


その後、後藤はドイツに留学して西洋医学を学ぶもののあまりにも大きい日本との格差にコンプレックスを抱くことになったが留学中の研究の成果が認められて医学博士の称号を与えられた。


しかし1893年(明治26年)に名門の相馬家のお家騒動に巻き込まれて5ヶ月間刑務所に入ることになった。


ことの真相はこうである、元相馬藩の家臣錦織が「旧藩主相馬誠胤を精神病者にしたて財産をのっとろうとしている者があるのでこらしめたい、そのため費用もかかるので借金の保証人になって下さい」と新平のもとへ訪ねてきた。


曲がったことの嫌いな上に人に頼まれるといやと言えない生活の新平は、それを承諾したため、逆に誣告罪で訴えられ、刑務所へ入れられる事になった。


裁判の結果、後藤は無罪となったのであるが栄光の衛生局長の座も同時に失った。


そのような失意の中で先述したとおり石黒軍医が源太郎を紹介したのである。


刑務所に入っていた後藤新平に対して源太郎は最初は半信半疑であったが直に会って話をしてみるとその本質を突いた言動と不屈の精神におおいに心を打たれたと言う。


その信念のとおり後藤信平はこの検疫業務を現場で毎日行うのであるが朝7時から夜中の11時まで診療室で椅子に座らずにずっと立ったまま診察をしたという話は有名である。


彼の業績は当時医学業界で一流であったドイツ人の医者たちから「アジアの国であれほどまでに完璧な検疫業務ができるとは思わなかった。我がドイツ以上の水準であることはまちがいない」と言わしめたほどであった。


このように当時の世界レベル以上の水準で検疫という「目に見えない敵」に対する戦闘業務を実施できたのも源太郎の慧眼と後藤という傑物の存在の賜物であった。


まさに源太郎は日清戦争という国家的行事によって統治する側のすべき医学を学んだのであった。


このことは後の台湾総督時代に生かされることになるのであるが今は源太郎はそのことに気づいていない時期である。


どうも後付けのようであるが神というものがもし存在するのなら源太郎にあるプログラムを課して彼が設問に対して着実に回答できるかどうかを試しているような気がしてならない。

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