第14話 台湾総督 児玉源太郎

台湾総督 児玉源太郎


無事優秀な成績で日清戦争の防疫業務を果たした源太郎に対しての神が次に用意したプログラムは「行政官としての鍛錬」であった。


源太郎の軍人以外で成した最大の功績はやはり台湾総督時代の見事な台湾行政であろう。


日本人が同じ日本人に評価されずに海外の外国人に評価されるケースが時折存在するが源太郎の場合がまさにそれにあたる。


ここに現在の台湾で2006年に20歳以上の成人男女を対象としたアンケートの結果がある。


1 旅行に行きたい国は

2 移住したい国は

3 尊敬する国は


上記の質問の回答はすべて1番が日本であった。多くの台湾人が日本を尊敬しいつかは行って住みたい国と思っていることがよくわかる。


同じ質問を同時期に統治を行っていた韓国の国民に聞いてみたらその極端な温度差を容易に想像ができる。


また2011年の東日本大震災の折には義捐金が200億円以上も集まりすぐに日本に寄付されたことは記憶に新しいことと思う。


日本は同時期に韓国と台湾を当時の国家予算の3分の1を裂いて統治したが現在の両国の日本に対する評価が180度違った結果になっているのが非常に興味深い。


おそらく統治された側の理論からすると韓国の反応のほうが理にかなっていると思うのであるが台湾の対日感情がそれほどいいという異常さを作った原因が源太郎の統治方法によるものである。


これはまさに偉業といっていい。


日清戦争の勝利によって清国から賠償金と台湾の領土を得た日本は統治するために台湾総督府を台北市においた。源太郎までの歴代総督は


初代 樺山資紀(在職 1年1ヶ月)

2代目 桂太郎(在職 4ヶ月)

3代目 乃木希輔(在職 1年4ヶ月)

4代目 児玉源太郎(在職 8年2ヶ月)

である。


植民地の統治というのはどこの国でも同じであろうが初期の段階では原住民とのいざこざや小規模の戦闘が想定されるために武力制圧ができる軍隊の将官を総督に据えるのが通例である。


明治31年、当時内務大臣であった児玉源太郎は4代目台湾総督に兼務を任命された。


しかし4代目の児玉源太郎は台湾の統治を軍人の自分が出て行くのではなく非軍人である後藤新平に民生局長の座を渡して彼にすべてを託したのであった。


民生局長を任せられた後藤が一番気にかけたのが台湾人のアヘンの利用者数であった。


アヘンの使用を武力で強制的に抑えるのではなく関税率を徐々に上げていき使用者の数を減らすことに成功した。


そのおかげで赴任前に17万人いたアヘン中毒患者が1945年には0になっていたという。


また当時の日本の国家予算が2億2000万円であった時代に4分の1に近い6000万円の予算を組んで基隆港、西部縦貫鉄道のインフラ整備、上下水道の整備、台北医学校、病院などの整備を行い内地である日本本土と同じ水準の都市整備を行ったのである。


このあたりが西洋の統治方法とは考え方が完全に異なる点である。


特に農業に関しては5000円札にもなった農学博士である新渡戸稲造をアメリカから「三顧の礼」で持って招聘してサトウキビなどの増産や米の品種改良を行い多くの貧窮した農村の発展と台湾の雇用機会の増大に寄与したのである。


また地方によってばらばらであった通貨・度量制の確立や土地の所有権の確定、戸籍などの統計制度の確立など法整備も同時に行い近代化を進めたのであった。


台湾人が源太郎を慕うエピソードである。

日露戦争後に建てられた神奈川県江ノ島にある児玉神社はそのほとんどの石材が児玉の8年間あまりの台湾善政に感謝する台湾人からの寄贈で組まれている。


特に正面の鳥居は台湾婦人会の寄贈で左右の狛犬も台湾有識者団体の寄贈である。


また特筆すべきは神社の建設予算が当時の金額で11万円であったが日本で集まった資金がわずか3000円しかなかったときのことである。


この報を聞いた台湾市民は残りの金額をわずか2週間で集めて寄付したというからいかに源太郎が日本人より台湾人に好かれていたかがわかる話である。


現在の台湾の発展に大きく寄与したといわれているのが現太郎が企図した台湾縦貫鉄道計画であった。


現地調査、設計から予算獲得まで全て源太郎が企図し彼が帰任した後の1908年には台北から高雄までの台湾縦貫鉄道が全線開通している。


また現在台湾の人たちの金沢旅行がブームになっていると聞く。


理由は台湾で当時東洋一といわれた八田ダムを作った八田 與一のふるさと訪問のためである。


このダムの完成のおかげで台湾の灌漑システムは改良されて台湾南西部のすみずみまで水が行き届き、世界一のサトウキビ畑までに発展することができたのである。


八田 與一の台湾赴任は時系列的には源太郎や後藤が日本に帰任したあとの1910年のことであるが源太郎が在任時から農業の促進を図りダムや灌漑設備の整備を重視した遺産と考えることができよう。


そういう意味では台湾人による源太郎のふるさとの「徳山旅行ブーム」がないのが寂しい限りである。

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