第12話 乃木と児玉 3

偶然とは恐ろしいもので、日清戦争後の下関条約で日本の領土となった「台湾の統治」でまた二人は「ご近所さん」の関係になる。


このあたり、二人の因果を感じる。


戦争後に獲得した新領土の統治方法は、「現地の反対勢力との武力衝突」を想定して文官ではなく武官に総督を任命するのが常であった。


初代台湾総督は鹿児島県出身の樺山資次が任命され、その後の2代目総督に桂太郎が任命された。


さらに桂太郎の次に3代目台湾総督を任命されたのが乃木であった。


しかしここでは乃木はあまり優秀な総督ではなかったと記されている。


ただし一点だけ乃木の功績があった。


彼の実直さから、現地の行政官や警察官の日常の態度や台湾の現地民への接し方については不正が無いように厳しく言い聞かせた実績が残っている。


このあたりはまことに乃木希典らしい。


しかしこのことが、次の源太郎の台湾統治に貢献している唯一の功績であった。


さて1年半で任期を終えた乃木は、明治31年(1898年)10月3日、香川県善通寺に新設された第11師団長として復職した。


余談では有るが当時の陸軍内のルールでは「大将になるため」には師団長の経験が必要であった。


ちなみに源太郎は、後方支援が長く師団長経験はないが日露戦争が始まり乃木と同じ日に大将になれたのは特例中の特例である。


乃木の次に台湾総督に選ばれたのが当時内務大臣と文部大臣を兼務していた源太郎であった。



西南戦争で「宮崎の戦い」のあとに戦争後のすみやかな行政復帰の重要さを知った源太郎はまず台湾内の医療とアヘンの撲滅に注目したのである。


ただし医療の素人であった源太郎は日清戦争時の検疫業務を任せた後藤信平に台湾民生局長の任を与えて自分のサポートを命じた。



また次に台湾の農業発展の重要性を感じた源太郎はアメリカから「武士道」の英語訳で知られる新渡戸稲造を農業指南役に抜擢している。


後世に五千円札になった人物である。


このあたり咄嗟に「問題の本質」を見抜いて「餅は餅屋」の発想を即刻実行に移すのが源太郎の真骨頂であった。


4年半の台湾総督の任を終えた児玉は、日露間が風雲急を要する時代になり陸軍に復帰することになる。


ここで陸軍内で不運なことが突発した。


日露戦争がもし勃発した場合にその開戦後の動員や戦略を担当していた田村怡与造が日露開戦の前年に過労のために急死してしまったのであった。


もし田村の急死がなかったならばその後満州軍司令部に児玉の姿はなかったであろうし203高地の「乃木の代打ちの場面」もありえなかったと思うところである。


時代が源太郎を後押ししたようにも取れる場面である。


いずれにしてもドイツの名将メッケルをして「日露戦争は児玉がいるから大丈夫だ」と言わしめた源太郎は「田村亡き後は自分しかいない」と決断して2階級を落としてまでも参謀次長の職責についた。


このあたり、名声や役職を何ほどにも感じない源太郎の心意気を痛感に感じる次第である。



しかし少し馬が合わない同郷の山県有朋の下では「働きにくい」と思った源太郎は西郷隆盛の甥っ子にあたる器の広い大山巌が総大将になったので「これは仕事がしやすい」と思ったことであろう。



日露戦争を前にして満州軍司令部には以下の4つの軍が準備された。



満州軍総司令部 参謀長 大山巌 


       参謀次長 児玉源太郎


第1軍 指令官 黒木為楨(くろき ためもと)


第2軍 指令官 奥 保鞏(おく やしかた)


第3軍 指令官 乃木希典


第4軍 指令官 野津道貫(のず みちつら)


このように日露戦争時の源太郎と乃木の関係は主戦場となる満州での戦闘の指示を与える満州軍総司令部の参謀とその意志のとおりに戦闘を指揮する軍司令官と言う関係であった。



わかりやすく言えば源太郎がプロ野球チームのオーナーで乃木がチームの監督という関係である。


余談では有るが日露の開戦後の37年6月6日 同じ日に両名は陸軍大将に進級している。


3年先輩の乃木にやっと階級が追いついた瞬間であった。


その後の日露戦争の歴史は司馬遼太郎の書物や映画などで有名であるが、乃木・源太郎の二人の関係のみを抽出すると。源太郎は立場上4人の司令官が回す「皿回し」の皿が常に安定しているように見張る立場であった。


しかし4人の皿回しをする司令官のうち唯一乃木だけが満州ではなく遠い旅順という地で皿を回しているのでどうも実情が良く把握できない。


しかも日々入ってくる報告によると、今にも皿が回るのを止めて落ちそうな状況らしい。



そこで意を決した源太郎は本来は違反行為であるが旅順に赴いて乃木に「少し皿を回すのを変われ」と願い出て見事立て直して満州へ戻ってくるのであった。


その結果旅順が陥落して改めて乃木を加えた5人の皿回し師たちを集結して奉天大会戦を戦い勝利するのであった。



私見ではあるがいろいろな書物を読んで乃木と児玉の性格の差を考えるのであるが、どう読み解いても乃木は児玉のような「長期ビジョンに立った戦略を実行する明確な強い意志」を感じないのである。


もちろん明治天皇崩御の際に、妻とともに自刃したことや日露戦争で自分の長男と次男が戦死した報に接したときに「よく死んでくれた」と微塵にも感情を出さなかったという彼のストイックさを表現するエピソードはあまたあるしまたそれ故多くの部下から神格視されたことも事実である。


しかし国家百年の計を考え日本の将来のために外交、開戦への働きかけ、インフラ整備などの信念に基づいた「組み立て能力」は児玉には遠く及ばないであろう。

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