第9話 西南戦争
神風連の乱で乱戦の中での沈着冷静ぶりや正確な敵情の把握、その情報に基づく勇気ある行動によって一躍陸軍内で有名になった源太郎であるがその名声を一層強固にしたのが鹿児島で挙兵をして同じ熊本を中心とした地域で戦闘が起こった西南の役である。
どうも源太郎は熊本という町と相性がいいらしい。
明治10年に起こった最後の不平武士の反乱である西南戦争はその従軍した兵士の数においてもまた錬度においても他の乱とは一線を画している。
明治政府の立役者西郷隆盛は明治6年の政変後鹿児島に戻り「私学校」という学校を県内に創設していた。
ここでは西南戦争の話の前にこの「私学校」について少し語りたい。
なぜ「私学校」がそれほど大事かと言うと西南戦争の勃発の直接要因であるからである、
「私学校」と言う名前から受けるイメージは田舎の小さなおとなしそうな私塾をイメージしがちであるがその内容と規模は現代の我々が創造する以上の規模であった。
もともとは不平武士の反乱の暴発のために西郷の立てた「私学校」の建学精神は天皇を崇拝といざ有事のときに備えての軍事教練と殖産の精神での農地の開墾であった。
「私学校」の本校は鹿児島城下の城山町の近くにあり鹿児島県全域に130ほどの分校があり最盛期には1万人以上の生徒が在籍してそれぞれで陸軍学校のように兵士の教育と銃や大砲などの近代兵器の扱い方を伝授していた。
しかしこの組織は明治新政府から見たら「テロ育成学校」に見えたことであろう。
そして全ての生徒が当時陸軍大将の地位にあった西郷隆盛を神様のように崇めてまたその建学の精神に賛同した若者たちであった。
1877年(明治10年)2月5日、西郷隆盛は鹿児島市内の私学校における幹部会議で新政府の対しての挙兵を決断する。
この情報はいち早く政府側にも伝わったらしく、翌6日には陸軍卿山県有朋より「鹿児島にて暴動の形跡があり、警備を怠らぬように」との内示があった。
この報を受けた源太郎は前年の神風連の乱で損傷した城内各所の防御工事を指揮すると共に、薬瓶に火薬を詰めた手製の手投げ弾を考案するなどして周到な準備をして西郷軍を待ちうけた。
鎮台司令長官谷干城は小倉の歩兵第14連隊(乃木希典)を熊本に呼び作戦会議に参加させた。
会議では鎮台全兵力をもって熊本城に籠城する事に決したのである。
主に籠城側の源太郎と小倉から挟撃する形で参戦した乃木希典歩兵第14連隊とが戦った西南戦争であるが最初は西郷の名前の勢いを借りた薩摩側が優勢であったが近代兵器のスナイドル銃で武装した政府軍に対しては各地で撤退を余儀なくされる戦闘が続くようになってきた。
天王山と言われたのが「田原坂の戦い」であった。
熊本市街に続く田原坂はいわゆる戦術用語で言う「隘路」で多くの軍勢が一斉に展開できない桶狭間のような場所であった。このような狭い場所では射程の長いスナイドル銃よりも抜刀の切り込み戦術が功を奏するので徴兵制度で集められた官軍はサムライの切込みを恐れて撤退するしかなかったのである。
ここで編成されたのが旧武士によって組織されていた東京警察隊であった。主に賊軍のレッテルを貼られた会津藩士が多かったこの部隊は会津城陥落の恨みを晴らす格好の舞台となり鬼神のごとく抜刀で立ち向かったのである。
この戦いで薩摩軍の敗北後は各地での戦闘は収束していき最後には鹿児島市内城山にての「本土決戦」を残すのみとなってしまった。
西郷は自分を慕って付いてきた部下たちと酒を酌み交わした後に自決したといわれている。
いずれにせよ双方に大きな犠牲者を出した西南戦争も西郷隆盛の自決によって幕を閉じた。自分が育てた「私学校」の若い生徒たちの燃え上がるようなエネルギーの中に敢えて「火中の栗」を拾いに行き死に場所を得た心境であったことであろう。
ここに明治の功労者西郷隆盛の死によって江戸から明治にかけて抱えてきた「矛盾」を解決した形になった。しかしあまりにも大きな代償ではあった。
官軍側の源太郎は天性の「本質を見抜く能力」で今日の満塁ホームランバッターが明日の戦力外通達をいとも簡単に受ける現実を理解していたので西郷の死を聞いた時は大義のために死んだ父や兄の時とさほど変わらない感情であったことであろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます