第7話 不平士族の反乱 佐賀の乱


徳川の時代から明治に変わってかつての特権階級であった武士に対して明治政府は徐々に締め付けを行っていった。さらに明治6年に不平士族のガス抜きとして考えられた韓国出征を唱える西郷隆盛、江藤信平を中心とした「征韓論者」の意見が退けられ日本各地で職を失い未来をも失った武士たちの中央政府に対しての反乱が勃発するようになった。まさに日本中が一触即発の危機にあったのである。


特に明治9年に施行された「廃刀令」や「秩禄処分」などは決定的で、サムライの象徴である日本刀と保障されていた給与を取り上げられたことは彼らのプライドと経済力を大きく傷つけたことであろう。

このそれぞれの反乱に源太郎は兵ではなく尉官として参加している。つまりこれらの戦いにおいて一番戦闘が過酷な最前線で指揮官としての実戦経験を積んでいくことになるのである。


明治維新十傑


幕末から明治時代にかけて新政府の設立におおいに貢献した以下の10名を「明治維新十傑」と呼ばる。

彼らは勲功からその後参議官となり新体制の確立に努めるのであったがその中の3名が郷里に帰り不平牛族の乱の首謀者として悲惨な最期を遂げている。

下記に十傑の名前と出身地と関与した乱を記す。

西郷隆盛(薩摩藩)  西南の役 首謀者

大久保利通(薩摩藩)

小松帯刀(薩摩藩)

大村益次郎(長州藩)

木戸孝允(長州藩)

前原一誠(長州藩)   萩の乱 首謀者

広沢真臣(長州藩)

江藤新平(肥前藩)   佐賀の乱 首謀者

横井小楠(肥後藩) 

岩倉具視(公家)


また時系列で明治6年の政変降に発生した不平士族の反乱を列挙する。


1 佐賀の乱 明治7年

2 神風連の乱 明治9年

3 秋月の乱 明治9年

4 萩の乱 明治9年

5 西南戦争 明治10年


佐賀の乱


明治7年2月20日に参議職を辞職して故郷に帰っていた江藤新平らの憂国党によって勃発した佐賀の乱では源太郎は大尉の階級で野津鎮雄の渡邊参謀の副官として従軍した。

大阪鎮台で命令を受けた源太郎は船で博多に到着して現在で言う国道3号線を南下して「九州の十字路」といわれる鳥栖をに経由して当時長崎街道と言われていた道を西に向かった。

現在の佐賀県立三養基高校の近くを流れる寒津川・田手川の戦い於いては、味方が次々と斃れていく中で源太郎は一歩も引かずに馬上で奮戦し、左大腕などに三発の銃弾を受ける重い傷を負うほどであった。

しかし苦戦の中でも時間を稼いだ源太郎の部隊の奮戦によりその後の官軍の挟撃が成功するのである。

この戦いによって総崩れとなった憂国党の軍勢は退却して佐賀城まで撤退をしたのである。

この敗退で勝機を失ったと見た江藤は征韓党を解散し、鹿児島県へ逃れて下野中の西郷隆盛に助力を求めるため戦場を離脱した。

なお、江藤は憂国党には無断で佐賀を離れており、この敵前逃亡ともいえる態度に副島義高ら憂国党の面々は激怒している。


源太郎にとっての佐賀の乱は初めて指揮官として戦闘を経験したのであるが目立った武功はなく負傷まで負ってしまった彼の中では及第点には遥かに及ばなかったであろう。

しかしこの戦いの後の負傷を治癒するために入院した病院で後に後藤信平を紹介する石黒軍医と巡り合うのであった。

極論すれば佐賀の戦いは源太郎と石黒軍医を引き合わせるためだけに用意された神の配剤であったのかもしれない・

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