第3話 児玉文庫
前述の通り長州人のDNAとしてまずは「子弟の教育」が挙げられる。
軍人であった源太郎も例外ではなくこのDNAは持っていており自分を育んだ徳山市の未来を担う師弟の教育のために「児玉文庫」という私設図書館を日露戦争が始まる直前の激務の中に開設したのである。しかもまだ全国的にも図書館という存在自体が珍しい時代のことである。
日露戦争開戦前1903年(明治36年)当時、本は庶民にとって非常に高価で貴重なものであったので本を所有して読める人は限られていた。現在のように多くの自治体が税金を投じて図書館を造って市民の誰でもが気軽に閲覧できる時代ではない。わずかに官立・私立大学の中にある図書館のみが多くの蔵書を抱えていた唯一の場所であり当然のことながら教授や大学生以外は閲覧の自由は無かった時代である。
そのような時代に巨額な私費を投じて子弟の教育を重んじて図書館を創るあたりの頭脳のレベルは当時の秀逸な人物と比べてもやはり源太郎は頭ひとつ分上を行っていたようである。
とはいえ図書館の設立と一口に言うものの、建設費用や蔵書購入費用など相当費用がかかるものであるが実際のところは現太郎はこの財源をどのように捻出したのであろうか。
当時孝明天皇の皇后が崩御されたおりに陸軍次官であった源太郎は葬儀委員の大任を任された。葬儀当日はすべての警備に問題も無く執り行うことができた。皇室はその御礼として金一封を源太郎に下賜したのであった。
この皇室からいただいた金一封に自分の財産をつけ足して「児玉文庫」の建築費1200円あまりを捻出したのである。
図書館の設立場所は父親の蟄居事件以来他人のものになっていた自分の生家であった土地を買い戻している。このあたり源太郎の生誕地への愛着とこだわりを感じる。
かくして図書館の場所と建物は確保したのであるが文庫創設当初の蔵書の入手に当たっては源太郎は自分の知人、友人の有識者たちに「児玉文庫」への寄付を依頼した。その結果、桂太郎、寺内正毅などの同郷人や新渡戸稲造、後藤新平などの名前が本の寄贈者として挙げられている。このことはいかに自分の意見に同調してくれる友人や知人が多数いたかということを雄弁に物語っている。
「児玉文庫」設立2年後には蔵書数は約8000冊を数え、そのジャンルも源太郎の趣味であった世界中の地理・歴史書が多く占めていたようである。また当時の時事を早く知るために地元の新聞社を含む10社の新聞を常に読めるように考慮したという。他の誰よりも先取りした情報収集というDNAがここでも顔を出している。
また文庫の閲覧者も年齢性別の区別無く勉学を志す人間であれば誰にでも門戸を開き、全国でも珍しい館外への貸し出しも行われるようになった。当時貴重であった本を誰にでも無料で貸し出すリスクを敢えて源太郎はとったのであった。この児玉文庫のおかげで徳山近隣の勉学に励む人たちが享受した恩恵ははかりしれないものがあるだろう。
「児玉文庫」創設後3年目に源太郎は日露戦争の激務が原因で急死するのであるが、彼の「本を通じての師弟教育」の意思はそのまま徳山市民に受け継がれてさらに全国からの寄付等によって蔵書の数は毎年増え続けていった。このような特異な経歴を持つ図書館は全国でも非常に珍しい。
その後明治の末には蔵書数は19000冊になり大正末には28000冊、太平洋戦争が始まる前年には43000冊にまで増えていった。このことはまさに故・源太郎の意志を尊重して寄付した友人や有識者の数とその蔵書とDNAを大切に守った徳山市民のおかげであろう。
「児玉文庫」は館外貸し出しというサービスのほかにも文庫に来れない遠方の人々に対して地方に出向いての巡回文庫サービスを行った。また本を読む場所という図書館本来の機能だけでなく発表会や展覧会、児童会などの多目的なイベントを定期的に開催して徳山の郷土の文化発展のための総合教育施設としても大いに利用されたのである。
しかし残念なことに昭和に入り太平洋戦争の終戦間際、1945年7月26日に米軍は日本海軍の息の根を止めるために「東洋一の燃料庫」である徳山海軍燃料廠の絨毯爆撃を行った。
雨のように降り注いだB29からの爆弾は目標の海岸沿いの燃料タンクや工場施設以外にも無差別に多数徳山市内に散布され、50000冊以上の蔵書を抱える児玉文庫を含む住宅街はたった一日の爆撃で灰塵と化してしまったのである。まことに勿体無い話である。
しかしこの児玉文庫の設備、蔵書、理念の消失を惜しむ市民の声が集いその後は徳山市立図書館設立に結びつき現在の周南市立図書館へと受け継がれていくのであった。最近では有名書籍店と組んで新幹線徳山駅構内におしゃれな図書館として大変貌を遂げている。
余談ではあるが市内には県立徳山高校という県下でも有名な進学校がある。山口県内でも他の都市の高校を差し置いて全国高校偏差値トップ100にランクインする名門校であるが現代の徳山市の学生の教育水準向上に源太郎の創設した児玉文庫の存在は無関係ではないと考える。
ここでは是非「図書館を作った陸軍大将」としての児玉源太郎の側面を記憶にとどめておいて欲しい。
ちなみに明治期の陸軍大将で戦後地元の子弟の教育に専念した人物がもう一人いる。「坂之上の雲」でも有名になった伊予・松山の秋山好古陸軍大将である。
彼は日露戦争後多くの将官たちが軍内に残る中で陸軍大将という階級をいとも簡単に捨てて故郷である松山に帰り北予中学校(現在の愛媛県立松山北高校)の校長職として毎日勤務したのであった。秋山は元陸軍大将とは思えないほどの温和な態度で全ての生徒に接したと伝えられている。また学校までの通勤には毎日の軍馬に乗って通ったらしい。
奉天大会戦で一緒にロシア陸軍と戦った二人であるが地元の子弟の教育に関する考え方は児玉と秋山には一種通じるものを感じる。ちなみに1883年(明治16年)秋山が陸軍大学校1期生で入学した時には現太郎はすでに大学校長の職であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます