第2話 幕末の長州


児玉源太郎の話を書き始める前にまずは彼の生まれ故郷であり人生でもっとも多感な17歳まで、暮していた長州藩の話からしなければならない。

厳密に言えば彼が生まれたのは長州藩の支藩であった徳山藩(現在の山口県周南市)であるが当時の徳山藩主も同じ毛利家の出身であることと家風や精神、ものの考え方は同様のものであったので長州藩の一部と考えていただいて差し支えない。


おそらく日本の近代史において幕末の長州藩ほど日本国内はもとより欧米列強を含む海外の時流を素早く読み取るために情報収集に集中した藩は他にない。そしてその危機の本質を捉え、若い人を育て機敏に行動を起こして時代を牽引するのに忙しかった藩はおよそ徳川260年の歴史の中で他にはないであろう。

よく幕末の雄藩として「薩長土肥」(現代の鹿児島、山口、高知。佐賀)と四つの藩の名前を上げられるがその中でも長州藩はエリートの人材教育と組織化された戦闘集団による実力行使は別格であった。

1868年に明治新政府が誕生する前のおよそ5年間の短期間に長州藩が関わった戦闘の数だけでも下記に示すようにかなりの数である。

1864年 7月8日 池田屋事変・・・対 京都守護職 新撰組

1864年 7月14日 禁門の変・・・対 会津・薩摩連合軍

1864年 下関戦争・・・対 イギリス・フランス・アメリカ・オランダ連合軍

1864年 第一次長州征伐・・・対 徳川幕府

1867年 第二次長州征伐(四境戦争)・・・対 徳川幕府

1868年 戊辰戦争・・・対 徳川幕府・奥羽越列藩同盟

と幾度と無く自藩の主張に対して違う意見の相手をことごとく「長州藩の攘夷」の対象として堂々と戦ってきた歴史がある。

またあろうことか当時の一等国の寄せ集めのイギリス・フランス・アメリカ・オランダ連合軍と戦った下関戦争では西洋式の大砲の性能によって大敗を喫し多額の賠償金の請求を受けるという苦い経験をしている。しかも後に「攘夷は幕府の命令でやっただけのこと」としてその多額の賠償金を江戸幕府に肩代わりさせて支払わせたという豪傑ぶりである。

まさに単純に「勇猛果敢」の一言に尽きる藩である。


長い長州藩の歴史を振り返ると

戦国大名時代の毛利元就は現在の広島市を拠点として中国地方(現在の岡山・鳥取・広島・山口・島根)と北九州地域(福岡・大分の一部)の広大な地域を収めていたころは100万石以上の米作とそれに加えての瀬戸内海、日本海の海産物、石見の銀山、馬関(現在の下関市)を通じての貿易および関税収入で優に200万石以上の実力があったとされている。つまり名実ともに当時は西日本で一番裕福な藩であった。

しかし歴史の転換点である1600年の関が原の戦い以降、豊臣秀頼を担ぐ西軍の事実上の大将であったがために敗戦後は大幅な減封を言い渡され首府を広島から遠く離れた日本海岸の萩まで移動させられた上に37万石という石高にまで領土を押さえられたのである。このことはいかに徳川幕府が毛利家の再起を恐れていたかの証である。

この37万石という数字は単に隣の広島に新たにやってきた徳川側の福島正則の知行である36万石という数字とのバランス保持のためだけ決められた石高であったので大きな意味合いはない。

しかしこれほどまでに禄高を極端に減らされてもなお毛利藩は、多数の家臣団を維持し続け辛酸を舐めつつ山あいの新田開発や海沿いの塩田開発などによって産業用に使用できる土地を広げて着々と別収入を稼いで家臣と領民を養うだけの体力をつけていったのである。徳川側から見ればかなりしぶといやっかいな藩として映ったことであろう。

このように常に辛酸を舐め続けさせられた毛利家の徳川家に対する怨嗟の気持ちを表した有名な言い伝えが残っている。

毛利家では毎年正月に新年の挨拶として登城した家老が「殿、倒幕はいかに?」と聞く慣習があったそうである。そしてそれを聞いた城主が「まだ時期尚早」と答えるのが毎年の通例となっていたと伝えられている。

江戸幕府に対して約5分の一に減封された「恨み」の心は領主のみならず家臣と領民の心の中にも蓄積され260年間、世代を変えても決して忘れられることが無かったという。まさに「臥薪嘗胆」の長州バージョンである。

このように「時期尚早」という言葉の通り常に外敵に対しての過剰なまでの敵対心と研究、情報収集が行われていたのである。そして戦う前の準備として必要な戦闘員の教育、組織化、武器の調達、食糧の兵站などおよそ近代戦と変わらないような「戦闘配備」を合理的に瞬時で行う風土がそこに培われたのである。

まさに長年蓄積されたこのDNAこそが多くの長州人の本質ではないかと筆者は想像する。このことは現代でも総理大臣をはじめ多くの大臣や政治家を一番輩出している県という現実が雄弁に物語っている。


それともう一つ長州藩の特色として下関(当時は馬関と呼ばれていた)という良港の存在が挙げられる。今でこそ日本の有名な港は神戸や横浜となっているが江戸時代においてはそもそも両港は存在していなかった。その中で下関は当事一流の良港でありまた物流の拠点でもあった。

この地は瀬戸内海と日本海の分岐点であり当時日本国内の船舶は必ず下関に寄港して物資とともに情報も置いて帰った要衝の地である。また韓国や中国とも近く日本国内の情報のみならず当事の最新の海外事情もタイムリーに手に入ったことは容易に想像できる。

このことから当時の長州人たちは下関という「巨大なアンテナ」から時代の最新情報を受け取り他の諸藩よりも先駆けて時流を読み取ることができたのである。


本編の主人公児玉源太郎を語るときにこの特異な長州人のDNAをよく理解することが必須ではないかと考えるものである。

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