第4話 児玉ケーブル
ここでもうひとつ特筆すべき児玉源太郎が作った遺物を紹介したい。これも軍人としては極めて珍しい思い付きである。
源太郎は西南戦争時において熊本城で篭城戦を戦っていたときに通信ケーブルを切断されたがために東京の司令部との通信ができなくなった苦い経験をしている。このときの教訓から彼は戦時における通信の重要性を痛感したのである。
同じ理由で日露戦争が開戦に近づくにつれ彼の頭の中には中国大陸との間に海底ケーブルを敷設する構想が出来上がったのである。
しかし当時の日本には大陸間に電信用の海底ケーブルがすでに2本存在していた。
ひとつは新潟からウラジオストックに向かうロシア向けのケーブルともうひとつは呼子-釜山でつながれた韓国向けのケーブルであった。
ただここど問題となったのはこの2本の海底ケーブルは大北電信会社というデンマークの会社に測量、ケーブルの敷設工事を請け負わせていたことであった。
日露の開戦に伴い前者のウラジオストックへのケーブルは相手国ロシアの敵地内なので日本軍側の情報が筒抜けになることは当然推測された。
また後者もデンマークの会社に敷設事業をやらしたので自国以外の関係者が関与していたため機密保持の観点からどうしても戦時には安心して使用ができない。
ここで新たに大陸まで日本の技術者だけで日本の技術を使って純国産の海底ケーブルを敷設する必要性があったのである。
一方日英同盟を結ぼうとしていた当時のイギリスは1850年から50年間の時間を費やして情報収集のために世界各地を海底ケーブルで結んでおり一番東の端は上海の外国人居住区まで線が延びていた。現在で言うところのインターネット網の構築である。
源太郎はこのイギリスの作ったケーブル網に乗っかるために大本営のある東京からまず鹿児島まで電線を巡らせ、その後奄美大島そして沖縄を経由して石垣島、台湾まで海底ケーブルを引いて繋いだのである。その後は台湾からさらに上海まで繋げこの通信網は完成した。
そして日英同盟が締結すると上海のイギリスの既存の通信網に繋いで東京とロンドンまでの通信システムが直通したのである。日本はこのケーブルと日英同盟によってまさに「タダ」でイギリスの情報網を使う事に成功したのである。
当初はデンマークの会社からは「日本人だけでは絶対に無理だ、我々にまかせろ」と揶揄されていた難事業ではあったが源太郎はイギリスから総延長2000㎞のケーブルを購入してケーブル敷設予定の海底の測量を開始した。
このときに活躍したのがケーブル敷設船「沖縄丸」である。
1895年(明治28年)にイギリスに発注した沖縄丸は翌年6月に進水し日本の長崎に回航された。
この沖縄丸の船名の由来は「沖に縄を張る」仕事から命名された。
まずは鹿児島から種子島、奄美大島、徳之島、沖縄、石垣を経由して台湾までの総延長1935kmの遠大な敷設工事に日本人だけで取り掛かった。このとき源太郎はこの作業を指揮するために陸軍台湾電信建設部の部長職に就いている。
さらに源太郎は念には念を入れてロシア軍から沖縄丸の正体を偽装するためマストの位置を移動しケーブル敷設船の特色である船首の大きなケーブル用滑車を隠す偽のカバーを被せてカモフラージュを施したのである。
さらに船体や煙突を白色から黒色へ塗り替えるなどの工事を、徹夜作業により佐世保海軍工廠で施された。
念の入ったことに船名も「富士丸」と偽装した沖縄丸は源太郎の指示の元、日本人だけの力で海底の測量と敷設を完遂してついに台湾経由で中国本土までのケーブルネットワークの構築に成功したのである。
この期間ロシア軍はまったくこの作業に関しては知る由もなかった。
このように沖縄丸は八面六臂の大活躍によって完成させた「児玉ケーブル」のご褒美として本来は帝国海軍の軍艦にしか装着を許されていなかった皇室のシンボルである「菊の御紋章」を艦尾に付ける栄誉に預かったのである。
「情報収集は命」またもや児玉のDNAの発露の賜物である。日露戦争勝利の影の立役者として児玉ケーブルの存在を是非記憶に留めて欲しい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます