何とお礼を申し上げたらよいか……
翌日も、円空の庵に足を運んだ。
空は曇っており、ほんのわずかに雪がぱらついていた。一面灰色の景色の中、強めの風を背に受けつつオレは馬に鞭を当てた。
やはりお鶴は不在であった。彼女はどこに居るのか、いつ頃帰って来るのか……と円空に尋ねたかったが、硬派な一二歳のオレとしては
そんな中、最後の講義が始まった。途中、オレの持参した握り飯を二人で食べたが、お鶴の居ない食事は実に味気なかった。しかしそんな気持ちを顔に出さないよう、努めた。
午後も孫子の講義が続いた。駆け足気味ながらも濃い、「行軍篇」の解説に耳を傾ける。
「支那の皇帝や王は、ただただ領土欲しさに軍をおこし
「なるほど」
「つまり、元々兵士達の士気は低うござる。ゆえに、行軍の速度を早めるとますます士気が落ち、兵士も荷駄部隊の人夫も逃亡してしまうわけですな」
「あははは」
「そこで孫子は、一日あたりの行軍速度が何里であれば、何割の兵が残存する……と書き並べておられる」
「ほう……。されば、兵士の士気に応じた速度で移動しろ、ということですか」
「左様。また悪路や悪天候での行軍も、士気が落ちる原因となりましょうな」
丁度陽も落ちかけた頃、九巻「行軍篇」が一通り終わった。
区切りの良いタイミングだが、しかし円空は講義を止めようとしない。さりとて次の、一〇巻「地形篇」に取り掛かるでもない。正月以来やってきた箇所のおさらいが始まった。
そろそろこちらから、いとまを告げるべきか……と思案しているうちに陽が落ち、
「ただいま戻りました」
と、ふいにお鶴が庵に帰って来た。
彼女の頭や着物のあちこちに粉雪が残っていた。オレはお鶴に軽く会釈する。
「おおっ。そうじゃ」
円空は漸く書物を閉じ、孫子一三巻全てを積み上げると、オレの前に差し出した。
「拙僧には不要の書です。お前様がお持ちになり、役立てなさいませ」
「ありがとうございます」
「さて、これから他所で法事がありますゆえ、出かけます。お前様はどうぞごゆるりと」
円空はそう言うと立ち上がった。オレは円空にこれまでの礼と別れの言葉を述べ、庵の外まで見送った。
(オレに気を利かせて、お鶴とふたりきりの時間を作ってくれたんやろか……)
と思うと、胸に込み上げてくるものがあった。今後円空と再会のチャンスがあるのだろうか。非常に心許ない。
屋内に戻ると、お鶴はかまどに火を
「夕餉の支度を致します。粗末な物しかご用意出来ませぬが、ごゆるりとなさって下さいまし」
「ありがとうございます。お言葉に甘えます」
オレは一旦外に出ると、馬の背に括り付けていた
どのような手品を使ったのか分からないが、お鶴の手によりたちまち夕食の支度が整えられた。
お鶴が囲炉裏を前にして着座する。
「既に聞いておられると思いますが、明日朝、九州に向け
ふいに悲しみがこみ上げ、言葉に詰まった。
それを振り払うように、オレは、
「色々お世話になりました。こちらはこれまでのお礼です。お納め下さい」
と、行李をお鶴の前に差し出す。
「恐縮にございます。……こちらは、さるやんごとなき御方から八郎様へと」
逆にお鶴は、小さな封書をオレに差し出した。
中には熊野のお守りが入っていた。その添え書きに、オレは驚天した。
――武勇第一の若武者よ、異郷の地に在りても自愛せよ。
と書かれており、それこそ先日拝見したばかりの、崇徳院様の署名をそこに認めたのである。
「何故、
言葉が出ない。崇徳院様がオレなんぞに気遣ってくれるのも驚きだが、お鶴を通して下賜……というのも驚きである。彼女は一体何者なのか!?
しかしお鶴は、オレの驚きに何も応えてくれない。
「それから、こちらは八郎様にと準備して参りました。是非お受け取り下されますよう」
お鶴はさらに、風呂敷の包みをオレに差し出す。
解いてみると、それは「六韜」という書物、計六巻であった。
「支那の古い兵法書だそうです。他にも『三略』という三巻がございますが、あいにく書写が間に合いませんでした。そちらの『六韜』六巻だけでもお受け取り下さいまし」
パラパラと頁をめくると、最後の最後まで、流れるように美しい文字である。随分急いで書き写したらしく、六巻のラストは墨が乾ききらないまま書き進めたようで、ところどころに前頁の文字の墨が滲んでいた。
平成の世の書籍と異なり、一巻あたりの文字数は極めて少ない。しかしこれだけの分量を手書きで完璧に写すとなると、大変な労力である。聞けば、最後は持ち主に無理を言って数日泊りがけで書き写したらしい。
「何とお礼を申し上げたらよいか……」
オレはお鶴に、深々と頭を下げた。
それから食事をとった。ふたりの間に会話は無かった。共に碗と箸を置くと、オレはお鶴を見つめた。お鶴はオレを見つめ、そして黙って俯いた。
外は、吹雪いてきたのかもしれない。雨戸を打つ風の音が、少し激しくなったようである。
お鶴は俯いたままである。その白い頬に、一筋の涙が流れ落ちた。オレは胸を締め付けられる思いがした。
そっと、お鶴の脇ににじり寄り、お鶴の手を握りつつ肩を抱いた。
お鶴は声もなく大粒の涙を流し始め、オレの胸に顔を埋める。オレもただ黙って、お鶴を強く抱きしめ続けた。
粗末な庵の仄暗い囲炉裏の灯の中で、ふたりだけの
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