第5話:秋田で業績表彰、その後、新潟へ
そう言う事で、1人の女性に決めることもできず、ひたすら昼の営業活動と夜の
活動の激務を楽しんでいた。秋田に赴任して、また、色白の綺麗な看護婦さんが、
多く、その中でもベテランで仕事に夢中で、婚期をのがした20代後半から30代
後半の脂ののりきった美人と仲良くなって、その看護婦さんから、愛宕製薬の薬を
使ってやって下さいと、宣伝してくれるようになり、まさに、濡れ手に粟の状態で
業績を上げていき、秋田赴任3年目にして、業績伸び率、全国一で、表彰された。
会社に入って8年目で2千万円を越える貯金ができた。思い起こせば看護婦さん
の中で、30代後半ので地方病院の外来婦長さんの新珠三千子「あらたまみちこ」
さんには、公私ともに、本当にお世話になった。内科、外科、整形外科、皮膚科で、
中堅製薬企業の愛宕製薬が、院内薬剤売上ベストスリーに入って、業績伸び率と、
新薬の売り上げでトップという、2冠達成で、1980年には、年収が、遂に1千
万円を越えた。
やがて秋田での5年が終わり、新潟営業所に転勤の日、送別会を終えた週の土曜
日、秋田で一番の温泉旅館に泊まり新珠三千子さんを個人的に呼んで、2人だけ
の送別会を開いて、夜遅くまで、飲んで、暖め合って、今まで、お世話になった事
に対して、十分に、お答えして官能的な夜を過ごした。翌日、彼女を自宅に送り、
別れ際、彼女が石津健之助の胸の中で、さめざめと泣いてくれた時、得も言われぬ
愛おしさ、ゾクッとする程の色っぽさを感じ、映画俳優1シーンの様な、感動的な
別れを経験した。最後に彼女が、「どこへ行っても、私の事を忘れないでね」
と言って、一粒の涙をこぼした。
入社10年して優秀な業績を認められて、最年少で課長に就任し、日当が3千円
で出張手当が1泊1万円になり、1982年に、新潟営業所へ転勤していった。
新潟に転勤しても、秋田と、同じ4泊5日の出張で、新潟県でも、長岡、十日町、
津南、六日町、小出、浦佐などの山間部を担当した。月曜日に、朝の会議を終える
と、昼に、長岡の開業医を2件、訪問して、長岡中央病院か小千谷総合病院を訪問
して、その後、十日町病院、津南病院、小出病院、六日町病院と開業医を訪問するパターンで訪問していた。
この地でも、秋田と同様、最初は、ホテルに泊まっていたが2-3ヶ月過ぎて、
小料理屋の訳ありの娘さんと、仲良くなり、呼ばれる日が多くなり、半年過ぎる頃
には、ホテルに泊まることがなくなった。週に4泊で4万円と日当3千円の5日分
で1.5万円の合計5万5千円となり、月に22万円の手当が、給料の他につく様に
なり。基本給も増えて、表彰の賞金がなくても、年収が9百万円となった。
新潟でもホテルに泊まることがなくなったので、美味しい酒のつまみや取れたて
のイカ、タコ、ノドグロ、イワシ、アジのひものなどを買って行って喜ばれた。
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