第4話:秋田への転勤と楽しみ

 そのため、最初の3回は上司同行接待の場合がの多く、胃潰瘍になる

医薬品プロパーが多いのも頷ける。しかし、実際には、馬が合う先生を探す

ことが一番大切だと言うことを、知る場合が多く、いかに、馬が合う先生を

1人でも多く探すかによって、その医薬品プロパーの年収、出世が決まると

言っても決して過言ではない。


 だから、できる医薬品プロパーは、必ず、得意技を持ってる場合が多い。

 例えば、ゴルフがシングルの腕前、テニスのインストラクターになれる腕前

、釣りの名人、パソコンの達人、接待の達人、会話の名人、投資のプロ級の

知識など。そして、その自分の特技を磨くために、使う金は、惜しまないし、

成功すれば、完全に元が取れて、おつりが来る程の収入が約束されている。


 もちろん、出世競争にも勝てるわけだ。石津健之助の場合は、愛想の良さが

、一番目の武器で、ハンサムで女医さんの受けが良い。二番目に、こまめに気が

利き、小器用な点。三番目に、その気にさせるのがうまい。これらは、それ程の

努力も、お金もかからない。ただ、自分が落とせると思う先生を探すには、

営業経験がものを言うので5年以上経つベテラン医薬品プロパーになると、

どれだけに早く、自分の落としやすい先生を見つけて、業績を上げるかが、

競争に勝つポイント。石津健之助は、愛想の良さと、気が利き、ハンサムと

来ているので、女性に人気があり、他の男性よりも良い経験をしていた。


 そのため、女性に不自由したことがなかった。独身寮にいても、休みの日に

、多くの女性が、入れ替わり立ち替わり、訪問してくるので、同じ寮でも、

うらやましがられた。1972年の最優秀新人賞で100万円の賞金を

手にいれ、3年目の1975年には、女性が使う皮膚科領域の薬の

キャンペーンで、全国一でトップ賞150万円を手にした。そうして、

入社5年の1977年に係長に就任し秋田営業所に転勤した。秋田営業所では

、月曜日に営業所を出て、金曜日に帰ってくるという、4泊5日の過酷な

営業活動をさせられたが、そのハンデを克服した。


 というのは、1977年当時で出張手当が8千円出て、営業手当と合計して、

1日1万円の手当が出ていた。営業所では、独身寮を完備して、住居費も

かからない。つまり、週に4泊で3万2千円と日当2千円の5日分で1万円の

合計4万2千円が、給料とは別に入り、月に20万円近くの手当が給料の他に

支給されるのだった。更に、石津健之助は、持ち前の愛想の良さと、気が利き、

ハンサムと来ていて、出張先の小料理にファンを作ったり、アパートから通う

少し年のいったナースのアパートに転がり込む日が多く、女性達がホテルに

泊まらせてくれないという幸運を得て、1977年当時で、通常の年でも

年収5百万円を超して、キャンペーンで表彰されると7百万円を越える事も

珍しくなかった。そして、


 その金額の7割以上を貯金できると言う幸運に恵まれていたのだ。

 まさに、男冥利に尽きる青春時代を送っていた。

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