第18話 明光 (5)

「ごめん! 遅くなった」


 玄関でばたばたと靴を脱ぐと「おかえり」と夏樹さんが部屋から顔を出した。


「そんなに急がなくても、まだ大丈夫だよ」

「約束の時間に間に合いそう?」

「30分あれば着くから、少し休んでも間に合うよ」


 時計を確認してから、力が抜けたようにソファーに座り込むと、夏樹さんが申し訳無さそうに隣に座る。


「間に合わないかもと思って死ぬ気で終わらせてきたよ」

「ごめんね。綾乃ちゃんは平日帰りが遅いし、次の日も学校なんだよって反対したんだけど……」

「いやいや、夏樹さんが悪い訳じゃないから気にしないで。

それに、私にイエス以外の返事は認められていないから」


 苦笑しながら夏樹さんにもたれ掛かると、よしよしと頭を撫でてくれた。その優しい手つきにいっそのこと予定を放り出してこのまま眠ってしまいたいと思ってしまう。無論、そんな事など出来るはずもないのだが……


 先日、早紀さんが「今度ゆっくり会いましょう」と別れ際に言った言葉は社交辞令ではなかったらしく、夏樹さんと気持ちを確かめ合った次の日、スマホに見知らぬ番号から着信があった。


「もしもし、綾乃ちゃん?」

「!?

早紀さん、ですか?」

「今、電話して大丈夫?」

「は、はい」


 思いがけない相手からの電話に、思わず姿勢を正して電話を受ける。

 夏樹さんの明るくなった雰囲気に私達が落ち着いたらしいと察した早紀さんが、折角だから食事でも、と誘う為に電話をくれたようだ。


「えっと、質問して良いですか?」

「ええ、何かしら?」

「それには、私と夏樹さん、早紀さんの三人でご飯を食べるんですよね?」

「いいえ。涼も休みを取るらしいから、四人ね」

「……私、色々と忙しいので、良かったら三人でゆっくりと」

「貴女と、話をしたいのよ。

参加してくれるわよね?」

「モチロンデス……」

「良かった。

綾乃ちゃんならきっと参加してくれると思っていたから」


 涼と早紀さんという組み合わせに冷や汗が流れ、断りかけた私に、電話先からのにこやかな声が拒否権を剥奪する。私以外の仕事の都合で平日しか休みを合わせられず、既に場所も、日にちも決定済みで、誘うというよりも強制参加の様な連絡に、私の意志など無いに等しかった。「楽しみにしてるわね」と告げられた言葉に乾いた笑いで返して通話を切ると、その場に思わず崩れ落ちた。



「あぁ、行きたくない……」


 先日のやり取りを思いだしながらぽつりと零れた本音に、夏樹さんが心配そうな顔をする。


「綾乃ちゃん、疲れているんじゃない?

今日は家で休んでおいたら。

早紀さんと涼さんには私から話しておくよ」

「ううん、行く。

私が行かなかったら、絶対家に押し掛けてくるもん。

それに、お世話になったからお礼は言いたかったし」

「そんなに心配しなくても、今から会うのは早紀さんと涼さんだし、大変な事になる訳でもないでしょう?」

「早紀さんと涼だから、だよ。

あの二人、私を弄る気満々だよ……」


 私が苦手意識を持っていると知っている早紀さんと、私の黒歴史を知っている涼の二人が、迷惑をかけた事の意趣返しを企画したに違いなく、何を言われるか怖くて仕方がないが、これも自業自得なので覚悟を決めるしかない。

 まぁ、基本的には二人とも大切な友人なので、ある程度のお叱りで許してくれると信じてはいるが。


「大丈夫だよ」


 そんな言葉と共に、夏樹さんが優しく抱きしめてくれた。目を閉じて身体を預けると、優しい香りに溺れてしまいそうになる。


「何だかんだ言って、綾乃ちゃんが帰って来たのを二人とも喜んでくれているんだよ」

「うん、分かってる……」


「じゃあ、元気になる様なプレゼントをあげる」


 未だにテンションが上がらない私に、夏樹さんが励ますよう告げた。


「……私、貰うならコスプレした夏樹さんが欲しい」

「えっ!?

コ、コスプレって、そんな事しないし、あげません!!」

「じゃあ、メイド服とかは?」

「もう!!」


 呆れながら立ち上がられてしまい、仕方なく準備をしようと温もりがなくなったソファーから起き上がると、夏樹さんが戻ってきた。


「綾乃ちゃん。これ、受け取ってくれる?」


 夏樹さんの手にあるのは、ハートの形をした小さな箱で、それを見た途端、先程までの緩い思考が一気に吹き飛んだ。


「これって……!」

「開けてみて?」


 手渡された箱を前に、息が詰まりそうになる。どきどきする胸を押さえながら、そっと開くと小さな宝石が埋め込まれた銀色の指輪があった。


「夏樹さん……」

「婚約指輪っていうよりは、普段使い出来る様にシンプルな物だけど。これ、お母さんの指輪をリメイクした物なの」

「……良いの?

そんな大切な指輪を私が貰っても?」

「うん。大切な人に使いなさいって渡してくれたから。

だから、貴女に受け取って欲しい」


 目の前の夏樹さんの小さな指輪に込められた想いを大きく感じる。だけど、そこにあるのは不安ではなく喜びの感情だった。夏樹さんが私の左手を取ると、薬指にゆっくり指輪を通す。彼女の細い指が私の指に触れるのを、息を止める様に見つめ、指輪が左手に輝いているのを見てから、ようやく息を吐いた。どうやら思っていた以上に緊張していたようだ。


「ありがとう、凄く嬉しい」

「良かった。喜んでもらえて。

二人が折角お祝いしてくれるなら良いかなって思って渡したんだけど……元気が出た?」

「すっごく元気が出た!」

「ふふふ」


 涙ぐみそうになるのをごしごしと乱暴に拭うと、微笑む夏樹さんと目があった。我慢できなくて彼女の唇に押し付ける様なキスをする。


「!?」


 最初驚いた夏樹さんも、次第に応えてくれる事にもっと嬉しくなってそのままゆっくり手を背中に回すと、はっとしたように夏樹さんが身体を離した。


「ス、ストップ!

もうおしまい!!」

「どうして?」

「どうしてって、このままだと……」

「もちろん、ベットに行くけど?」

「そんな当たり前みたいに言わないで!

これから出掛けるんでしょう!!」


 赤い顔の夏樹さんは困ったように私をなじるが、彼女が本気で嫌がっているのではないことくらいお見通しだ。夏樹さんの腰に手を回して抱き寄せたまま、軽いキスを繰り返しながら話しかける。


「そうだったね。

夏樹さんはもう準備出来たの?」

「うん、そろそろ、行かないと……」


 時計を見るため顔を反らした夏樹さんの耳から首へとゆっくり唇が降りていくと声が途切れがちになる。その声をもっと聞きたくなって、肌に唇を触れたまま訊ねた。


「もう少しだけ、このままじゃ駄目かな?」

「んっ……遅れ、るよ。

っ!?駄目!!」


 うなじに強めに唇を押し付けた途端、今度こそ身体を離して首を押さえながら私を睨んだ。赤い顔で睨まれても誘っているようにしか見えないのだが、口に出すときっと怒られてしまうので、にこりと笑って誤魔化す。


「続きは後からだね」

「……もう!

痕、つけてない?」


 夏樹さんの代わりに押さえた場所を見ると、残念ながらそこは赤くなっていなかった。但し、少し離れた場所の昨夜付けた分はばっちり付いている。


「うん、大丈夫」


 何が大丈夫なのか突っ込まれたら正直に話そうと思ったのだが、ほっとした様に笑う夏樹さんがそれ以上訊ねなかったので、私も言わずにいた。もしかしたら、これから会う人達にキスマークを見られるかもしれないが、あの人達になら見られても構わないだろう。



「それじゃあ、行こうか」

「うん」


 左手を差し出すと、夏樹さんの右手が重なる。笑顔の夏樹さんと手を繋いだまま私達を待つ友人に会うため、ドアを開けた。

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