第16話 明光 (3)
夏樹さんの新しい職場は少し離れた街の大きな図書館らしく、私はまだ一度も訪れたことはなかった。バスを降りて新しいスマホのナビで検索すると、図書館は直ぐに分かった。
初めて訪れる図書館は近代的な建物で、中に入ると広々としたエントランスホールがあり、右側にカウンター、左側にカフェが併設されていた。カウンターの中にはスタッフプレートを提げた幾人もの人がいたが、夏樹さんの姿はなかった。一瞬、呼び出してもらう事も考えたが、彼女の仕事を邪魔したくなくて散策するようにゆっくりと歩いてまわる。和やかな雰囲気に包まれた館内は休日とあって利用者も多く、あちこちで本を開いている人の姿が見られた。
「何か、お探しですか?」
後ろから声をかけられて振り向くと、思わずぎょっとする。
「さ、早紀さん!?」
大きな声が出てしまい慌てて口を押さえる私を、分厚い本を片手に抱えた早紀さんがくすくすと笑う。
「久しぶりね、綾乃ちゃん」
「は、はい。
すいません。帰ってきたのに、お礼も言わないままで……」
「別に構わないわよ。
夏樹から聞いていたから。あの子に会いに来たの?」
「あ、えっと……」
私の曖昧な返事に何かを察したのか、早紀さんはそれ以上訊ねることもなかった。
「早紀さんは本を借りに来たんですか?」
私の質問に、彼女はきょとんとした顔を見せた後、おかしそうに笑い、抱えていた本と胸の間から何かを取り出して私の目の前に見せる。それを覗き込んだ途端、思わず声が出た。
「えっ!?」
「私もこの図書館のスタッフなの。夏樹から聞いていなかった?」
「仕事を変えたとは聞いていましたけど……」
「一応、夏樹の先輩だから宜しくね」
スタッフプレートをしまいながら、早紀さんは「夏樹は二階にいるわよ」と教えてくれた。
「早紀さん!」
「?」
「本当に……ありがとうございました」
そのまま立ち去ろうとする彼女に、色々な意味を込めてお礼を伝えると、私をしばらく見ていた早紀さんは、ふっと微笑んだ。
「……綾乃ちゃん」
「はい」
「涼がすっごく怒っていたわよ。私に一言も相談しないで勝手にいなくなったって」
「うぇっ!?
だって、それは……!
そ、それよりも、どうして早紀さんが涼の事を知ってるんですか!?」
「友人だから、当たり前でしょう。
涼に会うときは覚悟しておきなさい」
「友人って、いつの間に……」
早紀さんの思いがけない言葉にあたふたする私を、彼女は面白そうに見つめる。
「今度ゆっくり皆で会いましょう。
楽しみにしているわね」
笑って手を振った彼女に何となく励まされた気がして笑顔で返すと、私は二階へ続く階段に向かって歩き出した。
階段を上がると、たくさんの本棚とソファー、それに一人用の机が整然と配置されていて、一階とは違う図書館らしい光景が広がっていた。
床に敷かれたカーペットのお陰で足音すら聞こえないフロアを、少し緊張しながら夏樹さんを探す。やがて見えてきた一角は、絵本のコーナーになっているようで、そこだけ別世界の様に明るい空間が広がっていた。
絵本のコーナーでは読み聞かせを行っている最中らしく、十人ほどの子供達が座って、一つの絵本に視線を向けていた。その周りを囲む様に立っている保護者の間から聞き覚えのある声がして思わず足を止めると、何気なく視線を向ける。子供達の向こうで椅子に座り、絵本を朗読をしているのは夏樹さんだった。
抑揚をつけてゆっくりと物語を読み進める中で、時々飛んでくる子供の質問に脱線しないように答えながらも、物語を続けていく。やがて、絵本の裏表紙までめくり終わり、自然と起きた小さな拍手の中で彼女は嬉しそうに微笑んだ。読み聞かせの時間が終わったらしく、立ち上がる人達の中で馴染みらしい子供に抱きつかれたまま、その保護者と思える女性とにこやかに話していた。
私の知らない彼女がそこにいて、私の知らない夏樹さんの笑顔がそこにあった。
(私、勘違いしていたんだ……)
自分の心を覆っていた霧が一気に晴れて、身体が軽くなったような感じがした。
やがて片付けを済ませたらしい夏樹さんがカウンターに戻っていく。しばらくして書類の束を持った彼女がこちらに歩き出してきた。
少し離れた場所で見ていた私と視線が合うと、驚いた表情を浮かべたものの直ぐに笑顔で駆け寄ってきた。
「綾乃ちゃん」
私を呼ぶ彼女はいつもの夏樹さんで、思わず抱きしめたい衝動に駆られた。両手を握りしめて自分の衝動を抑え、笑い返す。
「遊びに来てくれたの?」
「うん、夏樹さんに会いたくなって。
読み聞かせ、凄く上手だったよ」
「えっ?
見ていたんだ」
少し照れながら、それでも嬉しそうな夏樹さんの胸には早紀さんと同じスタッフプレートが提げられていた。
「夏樹さん」
「何?綾乃ちゃん」
「あのね、私……」
「立木さん」
カウンターの中から夏樹さんを呼ぶ声が聞こえて、会話が途切れ、申し訳無さそうな夏樹さんに微笑んだ。
「後から話すよ。
私の事は気にしないで、いってらっしゃい」
「あ、うん……
ごめんね」
「ううん、家で待ってるから」
「そうだね。
じゃあ、なるべく早く帰るね」
どこか嬉しそうに手を振った夏樹さんを笑って見送ると、彼女の帰りを待つため、家に戻ることにした。
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