第13話 灯光

「話をしたい」と言われ、言葉少なに彼女と並んで歩いている間、私の心は戸惑いと困惑がひしめいていた。


私は夏樹さんを今でもずっと変わらず想い続けている。その事実だけは揺るがない。だけど、二年という時間が私と彼女の距離を確かに広げていた。すぐ隣にある手に触れることさえ出来ず、自分がどうしたいのかさえ分からない。

夏樹さんも同じ気持ちなのか、私達の間には沈黙が続いていた。彼女を好きだという感情だけが今の私を辛うじて繋ぎ留めているだけに過ぎなくて、些細な切っ掛けで離れてしまう事が怖い。


気がつくと、思い出の公園の前に来ていた。公園の中は閑散としていて、所々に設置された街灯だけがスポットライトのように足下を照らしている。


「良かったら、座って話さない?」

「そうだね」


隣の彼女が私を誘う。頷いた私に、彼女が小さく安堵のため息を洩らすのが聞こえた。

街灯の下にキャリーケースを立て掛けると、ベンチに腰を下ろす。拳一つ分だけ離れて座る彼女に、ふと付き合う前の思い出が重なった。


(あの時は夏樹さんに元彼の事を聞いてもらったっけ……)


遠い記憶に懐かしさを感じて小さく笑うと、夏樹さんと目があった。


「ここで初めてお弁当を食べた事を思い出したの」


私の言葉にその事を思い出したのだろう、夏樹さんも笑った。


「そんな事もあったね」


懐かしそうに呟いて空を見る彼女の視線の先に、細い月があった。そういえば、嬉しい時、悲しい時、彼女はいつも空を見ていた。今、どんな気持ちであの月を見ているのだろう。


「ねぇ、綾乃ちゃん」

「うん?」


「私、貴女と会えたなら、もう一度やり直したいって思ってた」

「うん」

「だけどね、やっぱり無理だって分かったの」

「……」


夏樹さんが穏やかな表情で私を見つめるのを、私はただ黙って聞いていた。


「だって、やり直すという事は、貴女と過ごした思い出を消してしまう事だから。私は、貴女がくれた愛情も、寂しさも、痛みも全部失いたくない。

だけど、好きだいうだけで一緒にいたあの頃の関係には戻れないと思う。

だから、貴女がいない間、私はどうしたいのかずっと考えていた」

「……」


「何度も何度も考えて、ようやく分かったの」

「……何を?」


緊張のあまり掠れた声で訊ねると、彼女は微笑んだ。


「やり直す事が出来ないなら、前に進めば良い。

貴女が背負ってきた想いを、今度は私が受けとれば良いんだって」

「……」


「お母さんの事を悔やむなら励ましたい。私を傷つけた事で心を痛めるならもう大丈夫だよって伝えたい。悩みがあるなら寄り添いたい。貴女が望むならいつでも、何度でも……

貴女に関わる全ての事を、私も受け止める、受け止めてみせるから……」


夏樹さんは向き合うと、私の両手に自分の手をそっと重ねた。少し震えている彼女の手の緊張が、直接私の身体に伝わる。



「私と結婚しよう。綾乃ちゃん」



沈黙したままの私に、それでも彼女は落ち着いていた。重なり合った手だけが熱を持っている様に熱い。


「ごめんなさい。

私、まだ答えられない。自分の気持ちが分からないの……」


「ふふ、何となくそんな気がしたから、返事は急がないよ」


俯き呟いた私を安心させるような明るい声に顔を上げると、彼女は微笑んだ。


「だけどね、私はずっと貴女を見てきたんだよ。貴女の事ならきっと誰よりも分かると思う」

「……?」


「私の名前、呼んでみて?」

「名前……?」

「うん。

きっと、綾乃ちゃんの気持ちが分かると思うから。

だから、ね?」


誘うような彼女の笑顔に、恐る恐る口を開く。何度も躊躇って言葉が出ない私を、彼女は励ますように見守っていた。


「夏……樹、さん……」


ようやく掠れた声で口にした言葉に、彼女は微笑んでくれた。


「はい」


「夏樹、さん……」

「綾乃ちゃん」


「夏樹さん」

「綾乃ちゃん」


何度も呼び掛ける私に、彼女は同じ分だけ私の名を呼び返してくれた。次第に濡れていく瞳で、それでも返事を返してくれる度に自分のわだかまりや不安が少しずつ消えていく。


「夏樹さん。

私、分かったよ」

「何?

綾乃ちゃん」


何度目かの呼び掛けの後、私は長い間閉じ込めていた想いを口に出来た。


「私……

ずっと、ずっと……夏樹さんに会いたかった」


その途端、ぐっと身体が引き寄せられ、気がつくと夏樹さんの腕の中にいた。背中に回された腕が酷く震えていて、身体を押し付けるようにきつく抱きしめた彼女の表情は、私の直ぐ隣にある筈なのに見えない。


「……私も、ずっと、ずっと会いたかったよ。綾乃ちゃん」


嗚咽混じりの彼女の声と優しい香りが、私を包む。僅かな隙間もないくらい抱きしめられた身体に、彼女の温もりが伝わるのをただ感じていた。


「ただいま、夏樹さん」


囁く程の小さな声が、彼女の堪えていた感情を解き放ったかのように、夏樹さんは私を抱きしめたまま声を上げて泣いた。

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