第12話 曙光

見覚えある景色を感慨深く眺める。

あれから二年が過ぎた事が信じられないくらい何もかも変わっていなかった。いや、良く見ると、知らない店や名前の変わった場所もあり町並みのあちこちが確かに変化していて、少しだけ早紀さんの気持ちが分かった気がした。


大学に挨拶を済ませると、今日の宿泊をどこにしようかと考える。出発前に部屋もスマホも処分した事を少しだけ後悔した。春香がいたのなら一晩だけでもと押し掛けるつもりだったが、卒業した彼女がどこに行ったのかも聞かないままだった。

目的地も決まらないまま、キャリーケースをお供に街に向かう。

自分の姿が何となく葉子さんと重なり、笑って別れた彼女を思い浮かべた。彼女はどんな気持ちでこの街に足を向けたのだろう。


葉子さんの訃報を、私は大学の研究室を通して知った。早紀さんが書いたと思われる手紙には、彼女が穏やかに最後を迎えたことだけが綴られて、その事が私を酷く安心させた。


夕暮れが闇に変わる一時に何となく足を向けたのは、夏樹さんと最後に見たライトアップのあった大通りだった。時期外れの今は閑散として、車が流れるように行き交っているだけだ。少しだけ足を止めて空を見上げ、彼女を想う。あれから少しも変わらないずっと続くこの胸の痛みと共に、これから新しいスタートラインに立つしかないのだ。


「とりあえず考えないといけないのは、今日の宿泊場所かな……」


私が帰国した事は両親にも告げていない。明日突然帰省した私に、両親はどんな反応をするだろう。そう考えて少しだけ微笑むと、キャリーケースを握りしめ街明かりの中に歩き出した。

ふと車の騒音に紛れて何かが聞こえ、自分の意志とは無関係に足が止まった。後ろから確かに聞こえる呼び声に、まさかという思いが、振り向かせる勇気を私から奪う。誰にも教えていない自分の事を何故彼女は分かったのだろう、それ以前に、一体どんな表情で向かい合えば良いのだろう。怖くて逃げ出したいのに、縫い付けられたように足は一歩も前に進まない。


「綾乃ちゃん!!」


もう一度はっきりと呼ばれて、私はようやく振り向いた。


彼女は走ってきたのだろうか、肩で息をしていた。荒い息のまま、私を真っ直ぐに見つめる彼女の姿は、久しぶりに会ったにも関わらず、私の記憶の中の彼女と何も変わっていなかった。


「私、貴女に言いたかった事があるの」


少し離れた距離がお互いの心を表しているようで、胸が痛む。


「貴女が急にいなくなってから今日まで、私がどんな気持ちでいたか貴女は分かる?

相談すらされずに勝手に何もかも決めて、連絡をとりたくても出来なくて」

「……」


無言のままの私に、彼女は一歩だけ近づいた。


「悔しくて悲しくて何度も泣いて、慰めてもらって、励ましてもらって、ようやく現実を受け入れることが出来た」


もう一歩近づく。それでも私と彼女の距離は遠い。


「それなのに、貴女は、まだ知らない振りをしようとしている。

私の前から、逃げようとしている」

「……」

「動かないで!」


咄嗟に後ずさろうとした私を彼女は制した。その声に思わず足を止める。彼女の表情は今にも泣きそうで、その表情を見た時、私はあの手紙を早紀さんに託した理由を思い出した。早紀さんを傷つけた時よりもずっと深い後悔が襲う。

結局、私は自分で彼女を傷つけておきながら、彼女が傷つく姿を見たくなかったのだ。しかもこうして再び逃げ出そうとしてしまうのだから、彼女が詰め寄るのも当たり前だ。そんな自分の臆病さに心の中で苦笑いするとキャリーケースを立てかけて、彼女に向き合った。


「ごめん」

「今さら謝らないで!」


夏樹さんがまた一歩近づく。彼女が向ける感情を身体で受け止めながら、私は夏樹さんを見つめていた。長い髪、綺麗な指、柔らかい唇、涙ぐんでいる瞳……もう二度と会えないと思っていた彼女を、目に焼き付ける。


「綾乃ちゃん」


いつの間にかすぐ目の前にいた夏樹さんが、私に呼び掛けた。

すぐ近くの彼女から、懐かしい香りがふわりと香る。

(ああ、夏樹さんの匂いだ…)

こんな状況で、それでも嬉しくなってしまう自分に呆れてしまう。


「貴女が離れたいなら、もう、引き留めないから……

一つだけ聞いて欲しいの。お願い」


夏樹さんは震える声で私を見つめた。


「貴女のお陰で、色々な話をした。たくさんの思い出が出来た。


本当にありがとう」

「…………えっ!?」


自分が想像していた言葉とかけ離れた言葉に、思わず上擦った声が出る。


「だ、だって、私、貴女を裏切ったんだよ?

たくさん傷つけたんだよ?だから……」

「うん」


肯定しながらも、彼女の口調は穏やかだった。


「傷つけられて、離れて、恨んでも、結局貴女の事を嫌いになんてなれなかった、忘れたくなかった。

だって……全部、貴女が私の為にしてくれた事だから。

私を大切に想ってくれていたのが分かっていたから。


だから、ありがとう、綾乃ちゃん」


泣くまいと笑いながら、それでも流れてしまう彼女の涙に、手を伸ばしそうになる自分を必死で抑える。私は彼女を抱きしめることなんて出来ない、そんな事は許されない……


しばらくの沈黙の後、今となってはもう遅すぎる願いを小さく口にした。


「私、葉子さんに最後まで付いてあげたかった」

「うん」

「葉子さんが貴女と笑っている姿が見たかった」

「うん」


「……結局、何もしてあげれなかった私を、葉子さんは許してくれたかな?」


夏樹さんの優しい声に勇気を貰って、どうしても訊ねたかった事を口にした。もう答えてくれる人は、どこにもいないのに……


「あのね、綾乃ちゃん。

お母さんが言っていたよ。'貴女は私のもう一人の娘よって伝えて欲しい'って」


「……」


微笑んで告げられたその言葉に、目を見開いた。そんな私の手を彼女はそっと取る。温かな手が私の握りしめたままの手を優しく包み込んだ。


「お母さんの代わりに、娘の私が許すから。

もう十分だよ。

貴女は貴女を許してあげて」


「っ!!」


俯いた顔に、涙が後から後からこぼれ落ちる。

私は葉子さんを看取れなかった事も夏樹さんを傷つけた事も、きっとずっと忘れることなんて出来ないだろう。だけど、彼女の言葉に、自分の中の後悔が確かに軽くなったように思えた。思わず「ごめん」と言おうとして、思い止まる。


「…………ありがとう」


泣き笑いの顔で告げた言葉に、彼女は優しく微笑んだ。


「お帰りなさい、綾乃ちゃん」

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