第10話 寒晦

駐車場の植え込みの縁に腰掛け、空を眺める。昼間晴れていた筈の空は雲に覆われているらしく、星も月も見えない。一台の車が中に入ってきて、停車するのをただぼんやりと眺めていた。


「夏樹さん!!」


焦ったように走ってくる彼女に、微笑みかける。私はきちんと笑えているだろうか……


「涼さん……」

「ごめん、遅くなって」

「ううん、私こそごめんね。急に電話して……」

「夏樹さん……」


涼さんの表情がみるみるうちに崩れていくのを見て、やっぱり笑えていなかったらしいと反省する。

少し躊躇った様に私を見てから、涼さんは口を開いた。


「何があったのか、聞かない方が良い?」

「ううん……聞いて欲しいの」

「分かった。少しだけ待っていて」


涼さんは車に戻ると、手に何かを持って戻ってきた。私の手の中に渡されたのはココアで、買ったばかりだったのかまだ温かかった。


「ありがとう……」

「温かいうちに少し飲みなよ。少しは元気が出るから」


一口飲むと、優しい甘さが口に広がる。「美味しい」と呟いた私に、彼女は小さく微笑んだ。

昼間の出来事に動揺し、混乱した私が咄嗟に助けを求めたのは、綾乃ちゃんの友人の涼さんだった。電話口でのあやふやな私の説明を黙って聞いてくれていた涼さんは「今からそっちに行くから」と告げると、急いで駆けつけてくれたらしい。彼女の住む街と私の街の間に高速道路が開通して随分近くなったとはいえ、決して近くない距離を躊躇わずに会いに来てくれる彼女の優しさが今の私には有り難かった。


それから、私はぽつりぽつりと打ち明けた。私の事、母親の事、綾乃ちゃんの事……全てを打ち明けた頃には、手の中の温もりは消えて、金属の冷たい感触だけが残っていた。私が話しているのを、隣に座ったまま、涼さんは何も言わずにじっと聞いていた。

静寂が辺りを包み、車が走り去る音だけが時折聞こえる。その静けさを壊さないように、涼さんがそっと私に訊ねた。


「……今、夏樹さんのお母さんは?」

「この病院に入院しているの。今は早紀さんが付き添ってくれているから……」

「早紀さんって、夏樹さんの友人の?」

「うん。

この病院は緩和医療で有名らしくてね。渋る母を説得して、何度も話し合って決めたって……」


潤む視界を我慢する様に瞬きを繰り返して、震える声で彼女に問いかける。


「涼さんは、知っていたの?

彼女とご両親の事」

「……ごめん」


涼さんは苦しそうに返事をした。彼女にそんな顔をさせたくなくて、無理矢理笑みを作る。


「ふふ、謝る必要なんてないわよ」

「だけど……」


少しでも気を緩めると自分の中から溢れだしてしまいそうな感情に蓋をするように、立ち上がって空を見上げたまま言葉を続けた。


「涼さん。

……私、何も知らなかった。

母の身体の事も、彼女のご両親の事も、留学の事も……

何も知らないまま、勝手に怒って、傷ついて、傷つけて……」

「夏樹さん」

「本当に自分が嫌になる……

私は結局何も分かっていなかった!

こんな最低な私なんて彼女に嫌われても当然だよ!!」


「夏樹さん!!」


涼さんが私と目を合わせようとするのを、咄嗟に視線を逸らして避ける。


「夏樹さん!!私を見て!!」

「離してっ!!」


暴れる私を涼さんが羽交い締めにすると、二人ともしばらくそのまま動かずにいた。もみ合ったせいで、お互いの荒い息だけが辺りに聞こえる。

乱れた呼吸と、爆発しそうな感情がようやく落ち着いた頃、涼さんは口を開いた。


「確かに、何も言わなかった綾乃は悪いし、夏樹さんは怒って当然だよ。私にすら相談しなかったあいつを殴ってやりたい。


だけど、だけどね、一つだけ夏樹さんは間違っている。

夏樹さんは前、私に言ってくれたよね?

自分を否定するのは、自分を想ってくれる誰かを否定する事と同じだって……悩んで苦しんでいる時、同じくらい自分の為に悩んで苦しんでいる人がいたのよって。

その言葉の意味を貴女が一番分かっている筈でしょう?


夏樹さんが傷ついた以上に、あの子は貴女を傷つけた事を苦しんでいた筈だよ。

貴女があの子を想っているのと同じくらい、あの子は貴女を想っているんだから……

だから、お願い、自分を否定する事だけはしないで!

綾乃の気持ちを無駄にしないで!」


「……私、どうすれば良いの……」


自分の感情のやり場すら分からず途方にくれる私に、ようやく身体を離した涼さんは、私の頬に手を寄せた。


「泣いて良いよ、夏樹さん」

「えっ……」

「ずっと、泣きたかったんでしょう?

だから、私に電話をくれたんだよね」

「……涼、さん?」


私を見つめた彼女は、にこりと微笑んだ。


「嬉しかったよ、貴女が私を頼ってくれて。

今日は、私がとことん付き合うから」


そう言って笑うと、私は彼女に優しく抱き寄せられた。彼女の腕が私を包むと、先程のココアの様に身体を温もりがゆっくりと染み込む。


「もう我慢しなくて良いよ。

そんな辛そうな顔で笑わないで良いから」


身体越しに聞こえる声に、滲んだ視界が瞬く間に涙で見えなくなっていく……


「綾乃、ちゃん……」


一度口にすると、もう我慢が出来なかった。何度も何度も彼女の名前を呼ぶ私を、涼さんは黙って抱きしめてくれた。

悲しくて、苦しくて、張り裂けそうな胸の痛みを少しでも感じなくて済むように私はひたすら彼女を想って泣き続けた。

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