第9話 寒雷
綾乃ちゃんとの約束の時間を待ちきれず、結局待ち合わせの公園に随分早めに着いてしまった。スマホを見て時計を確認すると、約束の時間までまだ10分以上ある。広い公園の奥のベンチまで歩きながらぼんやりと景色を眺める。綺麗に晴れた今日は過ごしやすい陽気で、離れた遊具のスペースで小さな子供が母親らしき女性と無邪気に遊ぶ姿が見られた。
ふと、自分の母親を思い出す。彼女はどうしているのだろう、そんな事を考えている自分に気がつき、はっとした。忘れたいと願っている筈なのに、先日久しぶりに会った彼女の姿がありありと思い出されてしまう。
(私は、本当は……)
ざっと砂を踏みしめてこちらに近づく足音が聞こえて、そのまま思考が途切れた。音が聞こえる方向に顔を上げた私の目の前にいたのは、思ってもいない人だった。
「早紀さん……?」
「こんにちは、夏樹」
早紀さんは、私を見てにこりと微笑んだ。まるで、私がここにいることを知っていたかの様な落ち着いた態度に、どくん、と心臓が跳ねる。
「これを預かってきたの」
早紀さんはバックから封筒を取り出し、私に差し出した。突然の出来事に自分の身体が震えているのが分かる。誰から、どうして――訊ねなければいけない、受け取ってはいけないと頭の中で警鐘が鳴っているのに、身体は私の意志に反して封筒に手を伸ばす。そんな私を彼女は何も言わずにただ見つめていた。
可愛らしい封筒に書かれていた宛名は私の名前で、その筆跡だけで差出人を見なくても誰だか分かった。封筒を開くと中の便箋に良く知った文字が目に入る。
'夏樹さんへ
まず始めに、こんな形で説明しなければならない事を許してください。
唐突な質問だけど、夏樹さんにとって家族はどんな存在かな?
私は貴女が家族の事で、いつも寂しそうに笑っている姿が悲しかった。夏樹さんが自分の誕生日を祝いたがらないのも、きっと家族に良い思い出がなかったからだと思う。
だけど、夏樹さんは心のどこかで、ずっとお母さんを望んでいたんじゃないかな?
私は貴女を傍で見ていて、いつもそう思ったんだ。
涼から聞いた事があるかも知れないけど、私の両親は本当の両親じゃない。本当の親がどこでどうしているのかさえも知らないまま育った。
今の両親には本当に感謝しているし、誰にも負けないくらいの愛情もあるよ。だけど、もし、本当の両親に会えるなら言いたい事は沢山ある。恨みも、辛さも、悲しみも、今の幸せも……
ねぇ、夏樹さん。
夏樹さんは、偶然にも葉子さんと再会出来た。これは神様がくれたチャンスだよ。貴女の気持ちを、きちんとお母さんに向き合って伝えて欲しいんだ。悔しさでも、寂しさでも、何でも良い。今ならまだ間に合うから……
夏樹さんに家族はいるんだよ。貴女がどんなに否定しても、正真正銘、血の繋がった家族が確かにいる。
だから、もう一度、家族をやり直して欲しい。葉子さんがまだ話せて、笑えるうちに……
葉子さんに残された時間は僅かしかないから。
夏樹さんは忘れているかも知れないけど、今日、誕生日だよね?
誕生日、おめでとう!!
何歳になったかは聞かないでおくよ(笑)
本当はきちんとお祝いしてあげたかったけど……それだけが心残りです。
この手紙を読み終えたとき、貴女は私を恨むと思う。むしろ怒って当然だと思う。だけど、人を傷つけることを嫌う貴女だから、きっとまた自分を責めるんじゃないかな?
私は貴女を傷つけて裏切った事を許してもらおうなんて思わない。だから、自分で責任を取る事にしました。
夏樹さんがもし、自分を責めるなら、私を恨んで怒って欲しい。そして、思い出して傷つくなら、私の事を忘れてくれても構わない。
夏樹さんにはたくさんの友人がいる。そして、貴女のお母さんがいてくれるって信じているから。
貴女は一人じゃない。きっと大丈夫。
今まで本当にありがとう。
香田綾乃'
読み終わった私の前に、いつの間に立っていたのだろう、早紀さんに支えられる様にして私を見ている女性がいた。
彼女を見た途端、私は何もかもが分かってしまった。
綾乃ちゃんが私を呼び出した意味も、彼女が今まで黙っていた訳も、そして、彼女からの手紙の言葉も……
以前会った時よりも随分と細く、顔色も悪いその人を見つめ、震える声で問いただす。
「彼女は、どこにいるの……?」
何かを堪えるような表情で無言のままのその人に代わり、隣の早紀さんが小さく答えた。
「教授から研究室の交換留学の話を勧められていたらしいの。
……今朝、日本を離れたわ」
「……嘘」
早紀さんの言葉が真っ白な頭の中で響く。早紀さんに詰め寄ろうとした時、手に持っていた封筒からぽとりと何かが地面に落ちた。それが、彼女に渡した私の部屋のスペアキーであることが分かり、思わず地面に座り込むと震える手で握りしめた。
「嘘よ!
そんな事、信じたくない……!!」
いつしかぽたぽたと落ちる涙が受け入れたくない言葉を事実だと伝えている。滲む視界の中、彼女の笑顔が思い浮かぶ。呼び掛けたい名前をどうしても口に出せなくて、言葉にならない叫びだけが響いた。
「っ!!」
そのまま崩れ落ちる私に、二つの影がゆっくり近づいた。
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