第8話 冬日
しとしとと降る雨が何日も続いた。もうどのくらい綾乃ちゃんの声を聞いていないのだろう、カレンダーの上では少し前の筈なのに、随分と長い間のように感じる。
日曜日の夕方、いつもの様に図書館の戸締まりをした後で、建物の外に出ると雨は止んでいた。休館日の前日は彼女とゆっくり過ごせるとあって楽しみだったのに、今は何もない時間がただひたすらに辛い。
バックの中でスマホが着信を告げている。私に電話をかけてくる人はそれほど多くない。淡い期待に急かされるようにスマホを取り出し、急いで通話に切り替えた。
「もしもしっ?」
「夏樹さん」
彼女が私の名を呼ぶ、それだけで嬉しさが溢れ出してしまう。
「今、電話して大丈夫?」
「うん、丁度図書館から出たところだから」
「そっか……お疲れ様」
「明日は休みだよね。夏樹さんは何か用事があるの?」
「ううん、何もないよ」
「あのね……話したい事があるんだ。
ずっと前に二人で待ち合わせをした公園を覚えている?」
「スーパーの近くの公園の事?」
「うん、良かったらそこに来てくれないかな?」
「ええ、分かったわ」
電話口から聞こえる声は穏やかで、優しかった。私の返事に、ほっとした様なため息が聞こえる。
「それじゃあ、お昼に公園でお願いね」
「うん」
「夏樹さん」
通話を切ろうとした私に、小さく呼び掛ける声が聞こえて、慌ててスマホを耳に当て直す。
「綾乃ちゃん?」
「……ありがとう」
そのまま通話が切れて、スマホが沈黙する。咄嗟にかけ直すべきか悩んだものの、私の中に何故か綾乃ちゃんは電話に出ないという確信があった。最後の言葉を思い出した私に不安が再び襲いかかる。
彼女は何を話すつもりなのだろう……ぎゅっとスマホを握りしめ、空を見上げると雲の切れ間に少しだけ晴れ間が覗いている。
明日はきっと晴れる――
彼女と会って話をすれば、どんな事でも乗り越えられる気がした。
昨日までの天気とは変わって、綺麗な青空が広がっていた。
先程から窓の外を見ていた葉子さんが、何かに気付いたように振り返る。
「そろそろ時間ね」
「うん……」
穏やかな表情の彼女は、私の顔を見て困った様に笑った。
「ほら、おいで」
両手を広げて笑う葉子さんに、無言のまま抱きついた。我慢できずに泣き出す私を抱きしめて、あやす様に背中を擦る。止めどなく涙が溢れ、いつまでも泣き止まない私に彼女はずっと付き添ってくれた。
「ごめん……葉子さん……
やっぱり、私、笑って別れられない……」
「良いのよ。貴女がどんなに望んでも、私の残り時間は僅かでしかないから。むしろ、今まで一緒にいてくれて感謝しているわ。
……貴女と過ごした時間は楽しかったわよ」
「私も、本当に楽しかった」
「それなら、もう思い残すことはないでしょう?
私は、笑って貴女と別れたいの」
少しだけ湿った声でそれでも優しく告げる葉子さんに、これ以上困った表情をさせたくなくて、ごしごしと乱暴に涙を拭って笑って見せる。
「うん……そうだったね」
「私、夏樹さんの次に、葉子さんが大好きだったよ」
「ふふふ、貴女らしいわね」
涙声の私に葉子さんは、明るく笑ってくれた。細い指で新たに滲んだ涙を払うと私を見つめる。
「貴女に会えて良かったわ、ありがとう」
「私こそありがとう」
もう一度ぎゅっと抱き合うと、ゆっくり身体を離す。まるで、その時を待っていたかの様に玄関のチャイムが聞こえた。
私の選んだ道はこれで良かったのだろうか、ふと不安が重くのし掛かる。
'他に方法はなかったの?'
先日言われた早紀さんの言葉が頭をよぎった。何度も何度も考えても同じ結論だったのに、ここまで来て尚も踏ん切りがつかない自分がいる。
「大丈夫よ」
目の前の葉子さんが、励ますように笑いかけた。その笑顔が、何度も夏樹さんと重なってしまう事を彼女は知っている。
この時だけはあえて、そう見えるように振る舞ったのかもしれない。
「貴女が自分で選んだ道でしょう。
いつか、笑える日が来るわよ」
「……そんな日が、来るかな?」
「ええ、きっと来るわ」
背中を押されるように立ち上がると、バックを持って玄関に向かう。葉子さんがゆっくりと立ち上がり見送ってくれた。
「ありがとう、葉子さん」
「さよなら、綾乃ちゃん」
ドアを開けると、明るい空が目に染みる。扉の向こうに立っていた彼女は、赤い目をした私に何も言うことなく小さく微笑んだ。彼女に会釈してから、最後にもう一度、後ろを振り返る。
笑顔で手を振る葉子さんに、約束通りに笑って大きく手を振り返すと、私は外に向かって歩き出した。
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