第7話 寒雲 (2)
通話を切ってスマホを下ろし、夏樹さんを想ってしばらく瞳を閉じる。彼女の声と言葉が痛む心を優しく温めてくれ、少しだけ笑みがこぼれた。
何となく視線を感じて目を開けると、葉子さんがベッドに横たわったまま私を見ていた事に気がついた。直ぐ近くで電話をしていたので、彼女に私達の会話は筒抜けだった筈だ。
「ラブラブでしょう?私達」
「……馬鹿ね」
何も言わない葉子さんに、にこりと笑って言うと、苦笑しながら返す。彼女の一言は電話でのやり取りの事か、それとも、先程彼女に打ち明けた私の決意の事か……
「綾乃ちゃん、やっぱり……」
「もう寝よう。葉子さん。
電気消すからね」
「……ええ」
躊躇うような葉子さんに話を遮るように笑いかけると、私の意志を汲み取ってくれたらしく、彼女はそのまま口を閉ざした。部屋が暗くなると、外のぼんやりとした明るさが室内を照らす。煙草の香りが残る中、目が慣れてくるとベッドの上の彼女が窓の外を眺めているのが見えた。
「空、好きなの?」
私の言葉に顔を向ける彼女は、意外そうな表情をしていた。
「どうして?」
「いつも見ていたから……
もしかして、自分で気がつかなかった?」
「……そうね、気がつかなかったわ」
「ふふふ」
思わず笑う私に、彼女は視線だけで理由を問いかける。
「夏樹さんも良く見ているよ。本当にそっくりなんだね」
「……」
くすくすと笑う私に無言でぷいっと顔を背ける葉子さんが、何だか可愛くて、また笑った。
夏樹さんの声が聞けて、葉子さんの可愛い姿が見れた――今日は良い日だったと思う。せめて夢の中だけでもこの幸せを噛みしめていたい。
「お休みなさい、葉子さん。
苦しくなったら、私を起こして良いからね」
「……お休み」
ベッドの下の布団に潜り込み、目を閉じる。眠りに入る間際、彼女の声が小さく耳に届いた。
「本当に、馬鹿ね……」
穏やかな空の下、約束の時間より少し早めに待ち合わせ場所の公園に行った。既に待っていた彼女の後ろ姿を見て、緊張する自分を奮い立たせるように背筋を伸ばす。私が彼女に会うには莫大なエネルギーと気合いが必要なのだ。初めて会ったときから、こんな私を何故か気に入ってくれる彼女には申し訳ないが、私は彼女が苦手だった。それでも全てを頼める人は彼女しか思い浮かばなくて、ゆっくり歩み寄る。
夏樹さんを誰よりも想っていた人で、私のライバルで、夏樹さんの初恋の人……
私に気がついた彼女は、微笑んで手を振った。長い黒髪をなびかせて笑う彼女は相変わらず綺麗で、やっぱり見とれてしまうくらいだ。そんな私に向かって歩き出す彼女の足取りはしっかりとしていて、少し前まで3年もの間眠ったままの人だと思えなかった。
「お待たせしました。早紀さん」
「約束の10分前じゃない。全然待っていないわよ」
「私から会いたいって言ったんですから、一応。
今日はお仕事が休みだったのにすいません」
「特に予定もなかったし大丈夫よ。
それに、折角の綾乃ちゃんからのデートのお誘いですもの、楽しまなくちゃね」
「ははは…」
片目を瞑り微笑む彼女に、とりあえず乾いた笑いで返すと、何から話せば良いのか分からないまま、二人で並んで歩き出す。夏樹さんとは違う優しい香りがふわりと鼻を掠め、何の香りだろうと考えていると早紀さんが立ち止まった。
「綾乃ちゃん、ここなら良いんじゃない?」
「えっ?」
「誰にも聞かれたくない話なんでしょう」
「あっ、はい…」
周りを見回すと、閑散として誰もいない。早紀さんは先程の様子とはがらりと雰囲気を変え、私の言葉を待つように近くのベンチに座った。早紀さんの隣に腰を下ろすと、穏やかな太陽の陽射しが身体をじわりと暖める。大きく息を吐き覚悟を決めてから、早紀さんに顔を向ける。そんな私を早紀さんは黙って見つめていた。
「早紀さん、聞いてほしい事があります」
全てを打ち明けた後、早紀さんはしばらく黙ったままだった。
「最低ね……」
「自分でもそう思っていますから、否定しません」
吐き捨てるように冷淡に告げられ、むしろほっとした。私は誰かに詰って貰いたかったんだと思う。そうすれば、この罪悪感が少しでも軽くなるから……
「私が夏樹の前から去ろうとした時、貴女は私に言ったじゃない。どんなに辛くても夏樹の傍にいて欲しいって。
その貴女が、私に一番大変な所だけ押し付けておきながら、いなくなるなんて、本当に最低……」
「……はい」
謝罪して償えるならこんな事は頼まない。すいません、と言いそうになるのを我慢する。そんな私にようやく早紀さんは顔を向けた。冷たい口調とは裏腹に彼女の表情は酷く悲しそうで、ずきりと胸が痛む。
私は、自分の我が儘でまた大切な人を傷つけてしまった……悔しさと悲しみが心の傷を広げていく。
「早紀さん、平手打ちでも何でもしてくれて構いませんよ」
「……じゃあ、キスして良い?」
「それは勘弁してください!」
こんな話を聞いた後で、平静を取り繕える早紀さんを羨ましく思う。彼女の言葉が、場を和ませる為の冗談と思いたい……少しだけ緊張が解れた私を見ながら言葉を続ける。
「私が、もし嫌だと言ったら?」
早紀さんの言葉に思わず笑った。私は私なりに早紀さんを理解している。そうでなければ、私は彼女に事情を打ち明けないだろう。
「早紀さんが夏樹さんの事を心配しない筈ないじゃありませんか」
「ふふふ、そうね」
つられて笑う早紀さんは、ようやく穏やかな雰囲気に戻った。
「ねぇ、綾乃ちゃん。
……もう、全部決めたの?」
「はい」
「他に方法はなかったの?
今からでも遅くない筈よ」
早紀さんは私を見つめながら、問いかける。その表情は私を本気で心配してくれていることが分かってしまうから、少し涙ぐみそうになってしまう。
「ごめんなさい。
だけど、夏樹さんが傷つく事も、自分が夏樹さんを傷つける事も、私自身が許せないんです。
だから、お願いします」
「……分かったわ」
ゆっくりと立ち上がると、早紀さんは私を見た。暖かい日射しの中、艶やかな髪がふわりと風になびく。
「一つだけ言わせてもらうわね」
「何ですか?」
「私、神様も占いも信じていないけど、運命っていう存在はあると思ってる。何となくだけどね」
「…」
「まるで、パズルのピースがはまるみたいに、お互いがお互いを必要としている。そんな出会いを見てきたから……」
俯きそうになる顔を懸命に堪えて彼女を見つめる。いつものからかいもない、彼女が夏樹さんに向けるような、真っ直ぐな優しさと愛しさが混じった眼差しはどこまでも穏やかだった。
「夏樹にとって、運命の人が貴女ならば……
私達はきっとまた会える」
「早紀さん……」
「私が夏樹を預かっておくから。
貴女が戻る日まで」
早紀さんは私に向かい合い膝をつくと、そっと両手を取った。我慢していた感情が溢れ、涙で滲む視界の中、彼女は綺麗に笑う。
「だから、さよならは言わないわ。綾乃ちゃん」
声を上げずに涙を流すだけの私を、彼女は優しく抱きしめてくれた。夏樹さんとは違う、優しい香りと温かな身体が私を包み込んでくれる。
「ごめんなさい……早紀さん」
「謝るくらいなら、やめなさい」
やっとの思いで小さく口にした謝罪に返す彼女の言葉があまりにも正論過ぎて、思わず吹き出してしまう。涙とおかしさでぐちゃぐちゃな顔で早紀さんを見ると、いつもの早紀さんの顔が目の前にあった。
「夏樹さんをお願いします。早紀さん」
「ええ、安心して。綾乃ちゃん」
早紀さんの笑顔に笑い返すと、私の目からまた涙が溢れた。
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