第6話 寒雲 (1)
'急な用事が入って今日は帰れません。
また連絡します。ごめんなさい'
夕方、スマホを開くとそんなメッセージが入っていた。
(久しぶりに会える筈だったのに……)
落ち込む心を彼女に感じさせないように、可愛い動物がOKサインを出しているスタンプを返して随分経つけど、未だに既読の文字がつかない。
スマホのメッセージを見る私の胸に不安が過る。綾乃ちゃんは年明けから何かと忙しいらしく「遅く帰って、眠っている夏樹さんを起こしたくないから」と自宅に戻る事が多くなり、一緒に過ごす時間が殆どなかった。
大学生である彼女と月曜日が休日の私とでは、元々ライフスタイルが合わない事も多かった。それでも今まで一緒に過ごせていたのに、急な変化に戸惑いを隠せない。彼女の変化が私の心に小さく不安の影を落とす。
今まで理由を告げずに会えなかった事などなかった。彼女はどうしたのだろう……気がつけば最近いつも同じ事を考えている。
電話やメッセージなど連絡を取る手段は幾らでもある筈なのに、綾乃ちゃんと会えないことが私をますます臆病にさせ、メッセージを送ることさえも躊躇ってしまう。
自分の中で彼女が忙しい原因は思い付かないけど、困った事があった時、助けてもらうのはいつも私の方だった。
こんな頼りない自分に彼女は理由を打ち明けてくれるだろうか……
仕事が終わり手持ちぶさたになった私は、気分転換と時間を潰すため行きつけの書店に足を運んだ。一通り本棚を眺めて気になっていた新刊を持ち、レジに向かう。
「夏樹さん」
「あっ、春香さん。こんばんは」
支払いを済ませたところで名前を呼ばれ、振り向くと綾乃ちゃんの友人の春香さんが立っていた。
「こんばんは、何を買ったんですか?」
「この本なんだけど……春香さんは読んだ?」
「いえ、私、最近忙しくて全然本を読んでいないんですよ。
ここに来たのも久しぶりで」
綾乃ちゃんと同じ研究室で、彼女と共に大学院に進学した春香さんは読書が趣味で、私達は書店で会う度、本の話題で盛り上がることも多かった。
「そうなんだ。やっぱり大学院生になると忙しいのね」
「私は綾乃ほど詰め込んでいませんから……
ところで、綾乃は家で待っているんですか?」
「えっ?」
「あれ?
今日もばたばたと済ませて、早い時間に帰ったから、てっきり夏樹さんの家に行ったのかと思っていたんですけど」
「あっ、えっと、……急用が入って来れなくなったって言ってた」
「そうなんですね」
驚く様子もなく納得する春香さんに、何気ない様子を装って訊ねる。
「あの、春香さん」
「何ですか?」
「綾乃ちゃん、毎日忙しいの?」
「まあ、最近早く帰りたいみたいで、慌ただしく過ごしているから忙しいといえば忙しいのかな。
私も何度か理由を聞いたんですけど、訊ねられたくない感じだったので止めておいたんです。夏樹さんにも秘密なんですか?」
「……ええ」
「大丈夫ですよ」
「えっ?」
「浮気を心配しなくても」
「!?
べ、別に、そういう事の心配じゃなくて!!」
一番考えたくない事を指摘され俯きかける私に、春香さんが笑った。私を励ますよりも少しだけからかう様に見つめる。
「私、綾乃から毎日貴女に会いたいって、うんざりするくらい聞かされていますから」
「も、もう!!」
「少しは安心しました?」
くすくす笑う春香さんが何か言おうとした時、彼女のスマホが着信を告げ、春香さんは会釈するとそのまま別れた。
平静を繕いながら歩き出す。未だ不安は消えないものの、春香さんの言葉に少しだけ気持ちが楽になったことは否定出来ない。
それでも会いたい気持ちは押さえきれなくて、書店を出ると何となく彼女のアパートに足が向かった。忙しいならせめて差し入れでも、と心の中で言い訳をしながら、彼女がどうしているのか確認したかった。やがて見えてきた駐車場に、綾乃ちゃんの車が停まっているのを見て、彼女が帰宅している事を知った。綾乃ちゃんに会える嬉しさから、少しだけ歩調を早めて歩き、玄関のボタンを押す。
「あれ?」
扉の向こうから返事はなく、ドアノブを回してもドアは開かなかった。スマホを開いて電話をかけてみると、電源が切ってあるようで、無機質なアナウンスが流れるばかりだ。アプリのメッセージもまだ既読がついていない。
「……留守?」
結局そのまま帰宅して一人で夕食を取った。音楽をかけてから買ってきた本を手に取ると、表紙を開く。楽しみにしていた新刊は少しもページを捲ることもなく、時間だけが過ぎていく。
突然スマホが光り、メッセージの受信を知らせた。急いで開くと待ち望んだ綾乃ちゃんからのメッセージだった。
'今日はごめん。
しばらく帰って来れないと思う。
落ち着いたら、必ず連絡するから'
「…」
時計を見ると日付が変わる前だった。こんな時間に電話をするのは、と躊躇うけれども、どうしても彼女の声を聞きたくて、そのまま通話ボタンをタップした。
「もしもし」
「…」
ワンコール待たずに、聞こえる声は確かに彼女のものだった。だけど、電話口でも分かる硬い口調に、何故か声が出せない。
「夏樹さん?」
「…ごめん、あの、忙しかった?」
「あ、…えっと」
明らかに小さく動揺している彼女の声が、私を怯えさせる。心臓はどきどきしているのに、身体は感覚を失ったように何も感じられない。
今どこにいるの、何をしているの―いつもなら簡単に言える筈の言葉が怖くて、つい謝罪の言葉がこぼれる。
「…ごめんね、綾乃ちゃん」
「ううん、私こそ、ごめん」
お互い謝罪するも、気まずい雰囲気が残る。ふと、何かを吹っ切るように綾乃ちゃんの声が届いた。
「わざわざ電話してくれたんだ」
「うん……声が、聞きたくて」
「……」
私の言葉に電話の向こうの彼女は言葉に詰まった。
「私も、同じ気持ちだったよ。ずっと」
優しく聞こえる声に、瞳を閉じると彼女を思い浮かべる。不安や寂しさを伝えたくて電話をしたんじゃない――
「大好きだよ、綾乃ちゃん」
彼女が、電話の向こうでふっと笑った気配があった。
(ああ、いつもの綾乃ちゃんだ)
胸にあった不安が消えて、酷く安堵する自分がいた。
「夏樹さんが言ってくれるなんて、凄く嬉しい」
「だって…」
「ふふふ、ごめんね。今日帰れなくて」
「ううん、大丈夫だよ」
「また、電話するから……」
「うん」
嘘をつくことが苦手な彼女に会えない理由を問いただすことは出来た筈なのに、私は何も訊ねなかった。彼女が話さないのは、きっと私に言えない理由があるのだろう。
ふと、以前、同じ様な状況で大切な人が何も話してくれないことを悩んでいた友人に、自分が言った言葉を思い出した。
'彼女が貴女に話せないのは、彼女にとって、貴女が大切な存在だからだよ'
――綾乃ちゃん。私は貴女にとって、特別な存在だと思って良いのかな?
「綾乃ちゃん」
「何?
夏樹さん」
口に出せない想いを抱きつつそれでも名前を呼ぶと、いつもの様に優しく返してくれる。そんな彼女に、飾る言葉を何もかも切り捨てて、伝えたい気持ちを全て込めて、告げた。
「私、待ってるから」
「……ありがと」
少しの沈黙の後、電話の向こうの彼女は静かに微笑んだ。そのまま私達は「お休み」と挨拶を交わすと電話を切る。
スマホを持ったまま部屋の電気を消して真っ暗にすると、ベランダに出て空を見上げた。街灯が点いているものの、深夜の街はひっそりと寝静まっている。微かに見える星空の中で、細い細い月が浮かんでいた。
離れて会えない彼女を想い、私はしばらくの間月を眺めていた。
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