第5話 冬天 (2)

それから、私は何度か葉子さんの元を訪れた。葉子さんは出掛けることもなく一日の殆どを家で過ごしているようで、訪問は突然だったのにいつも私を歓迎してくれた。


いつ訪れても、煙草かお酒を飲んでいるだけの姿を見かねて、いつしか彼女の元を訪れるときには差し入れを持っていくようになった。最初の頃は葉子さんの協力を取り付けて貰うために訪れていた筈なのに、次第に世間話や他愛もない事を話す事が多くなった。

それでも私は夏樹さんにどうしても葉子さんの事を打ち明けられず、ずっと後ろめたい気持ちを抱えたまま、葉子さんに会いに行った。


夏樹さんそっくりの笑顔、落ち着いた態度、優しい声、煙草を吸う仕草……何もかもにおいて、彼女は大人の女性だった。

きっと私の中には葉子さんへの憧れがあったのだろう。小さな子供が大人に憧れるように夏樹さんとは別の意味で、私は葉子さんが好きだった。そんな私の想いを彼女は気づいていたのか分からないが、何も言わないでいてくれた。


「こんにちは」


月日が流れ、カレンダーが2月に変わったある日、ドアを開けても、葉子さんはいなかった。外出するなら施錠していく筈なのにと、不審に思って葉子さんを呼ぶ。奥の部屋で微かに物音が聞こえ、靴を脱いで上がると、ベッドの下に葉子さんが倒れていた。


「葉子さん!」


両手でお腹を押さえ、荒い息で目を閉じたままうずくまる葉子さんの顔には、汗が滲んでいる。返事も出来ない姿に泣きそうになりながら、それでも声を掛ける。


「葉子さん! 苦しいの?

救急車を呼ぶから、待っていて!」


スマホを取り出し電話をタップしようとした私の腕を、葉子さんが凄い力で握りしめた。


「…だ…め…」

「どうして!?

具合が悪いんでしょう?」

「……やめ、て…大、丈夫…だか、ら…」

「で、でも……」

「…だ、め…よ」


苦しげにそれでも必死な表情で拒否する葉子さんに気圧されるように、スマホを下ろす。彼女の雰囲気が少しだけ和らいだ気がした。


「私に、何かして欲しい事がある?」

「……」


無言で苦笑する葉子さんに寄り添い彼女の手を握った。僅かに瞳が開いて、小さく微笑む葉子さんの背中を擦る。


「葉子さん…」


どのくらいそうしていたのだろう。ずっときつく目を閉じていた彼女の呼吸が少しずつ穏やかになり、ぐったりと脱力したままやがて規則正しい呼吸に変わった。握りしめた指をゆっくりほどき、汗にまみれた額をタオルで拭ってから、身体が冷えないように布団をそっと掛ける。

葉子さんを起こさないように静かに立ち上がり、私はスマホを取り出した。時刻は午後5時を過ぎている。


「夏樹さん…ごめん…」


ぎゅっと目を閉じて小さく呟くと、スマホのアプリを開いた。指が震えていて上手く文字が打てず、何度も打ち直してからもう一度確認する。


'急な用事が入って今日は帰れません。

また連絡します。ごめんなさい'


あっという間に送信されるメッセージを見てから、既読がつく前にスマホの電源を切った。


「本当に、最低だ…私…」


夏樹さんに言えない事がまた一つ増えていき、心に重苦しい痛みだけが積もっていく……それでも、葉子さんをこのまま一人で置き去りにする訳にはいかなくて、徐々に部屋が夕闇に覆われていく中、私はしばらく一人で立ち尽くしていた。



隣で身動ぎした気配があり、小さく呻く声が聞こえた。


「……葉子さん?」


ゆっくり目が開き、視点の合わない彼女に小さく呼び掛けると、瞬きを何度かした後でようやく私が分かったらしい。


「気分はどう?

何か飲む?」

「……水」

「分かった」


葉子さんの身体を支えてゆっくり起こすと、ペットボトルの蓋を開けて口元に近づける。葉子さんは勢い良く半分程飲んでから口を離して布団に倒れ込む様に横たわり、そのまま窓の外を見ながら小さく訊ねた。


「今……何時?」

「夜の9時を過ぎたくらいだよ」


「……帰らなくて良かったの?」

「うん、連絡したから……」


お互い肝心な事を口に出せないまま、それでも分かり合えてしまう程私と葉子さんが親しくなった事に、嬉しさと罪悪感が襲いかかる。そんな私に顔を向けて彼女は微笑んだ。


「帰りなさい、綾乃ちゃん」

「駄目だよ……葉子さんをこのままに出来ないもの。

ねぇ、やっぱりどこか具合が悪いんでしょう?

私が付き添うから、病院に行こうよ」


懇願する私に微笑むだけで、葉子さんは何も言わない。初めて出会った頃と比べて、顔色も悪くやつれている葉子さんが、このままいなくなってしまいそうで怖くて仕方がない。夏樹さんに相談出来たならどんなに良いだろう。

私が一人で抱え込むにはあまりに大きすぎる不安が目の前にあった。

のろのろと身体を起こす葉子さんは煙草を手に取る。いつもの様に口に咥えて火を着けるとゆっくり煙を吐き出した。


「……病院に行ったところでどうすることも出来ないのよ」

「どうして?」

「ここに来る前に、癌が見つかってね。既にあちこちに転移していたの。もう、手の施しようがないらしいわ」

「!?」


何でもない事の様に告げる葉子さんは、絶句する私に微笑んだ。


「入院を勧められたんだけど、どうせ残りわずかな人生なら、私は私らしく最後まで生きていたい。苦しくても、痛くても、全て受け入れたいの。

だから、私の事は気にしなくて良いのよ」


「嫌……」

「?」

「嫌だ!」

「綾乃ちゃん……?」


突然抱きついた私を戸惑った様にそれでも葉子さんは受け止めた。細い身体は強く抱きしめたら壊れてしまいそうで、葉子さんの言葉が事実であることを嫌でも思い知らされる。抱きついた身体から葉子さんがいつも愛用している煙草の香りが強く薫った。


「どうして、そんなに笑っていられるの?

葉子さんは自分で決めたことだからそれで良いかもしれない。

だけど、夏樹さんは何も知らないんでしょう?

夏樹さんとこのまま別れて何も思わないの?

そんなの酷すぎる! 夏樹さんがかわいそうだよ!」


「今更何を言えば良いの。知らない方が幸せな時もあるでしょう?」


葉子さんの穏やかな声が彼女の身体越しに私の耳に届く。


「そんな事ない!

私が夏樹さんを説得するから、夏樹さんと会って!」


そっと身体を離して葉子さんが私を見る。彼女が困ったような様子なのは、きっと泣き出しそうな表情をしている私のせいだろう。そんな私に、まるで子供をあやすような口調で話しかけた。


「綾乃ちゃんは、どうしてそこまで私と夏樹を会わせたいの?」


「だって……」


「だって、葉子さんは夏樹さんのたった一人のお母さんだもの。

夏樹さんはきっと誰よりも家族を望んでいる……

私にはそれが分かるから」


私の言葉を表情も変えずに葉子さんは聞いていたが、やがて、くすり、と笑って視線を逸らした。


「……無理よ」

「無理じゃない!

葉子さんは前に言ったよね、家族の意味を。血が繋がっていればそれが家族なのって……

……昔ね、私、自分の両親に同じ事を言った事があった。

私と両親は……血が繋がっていないの」

「……」

「高校の頃、偶然その事を知って、ショックで、感情のやり場がなくてどうしようもなかった……

凄く荒れて、毎日ただ生きているだけだった。

そんな私を見捨ててくれれば良かったのに、あの人達は何度も何度も受け止めてくれた。

例え、血が繋がっていなくても家族になれるって教えてくれた」

「……」

「ねぇ、葉子さん。

血の繋がらない私ですら、家族になれたんだよ?

夏樹さんと葉子さんは正真正銘の親子じゃない。

顔も、声も、仕草も、好きな食べ物も…二人ともそっくりな事を知らないでしょう?

今からでもきっと遅くないよ。

夏樹さんともう一度、家族になってあげて」


葉子さんはしばらく黙った後、ぽつりと言った。


「……夏樹にどう説明するの?

きっとあの子は貴女に裏切られたと思うんじゃない?」

「うん……」


ぎゅっと目を閉じて夏樹さんを想う。あの時、激しく拒絶した夏樹さんの表情が脳裏に浮かび、胸が痛んだ。


「分かってる。

私、葉子さんに会いに来た時から覚悟していたから……

どんな事になっても受け入れるよ。


私は、夏樹さんが幸せに笑ってくれれば、それ以上何も望まない」


笑って葉子さんを見る。そんな私に彼女の瞳が微笑むようにすっと細められた。


「……良いわ」

「?」

「夏樹と会いましょう」

「本当に!?

約束だよ!葉子さん」


嬉しくて思わず声を上げて抱きついた私に、葉子さんは苦笑する。


「貴女に会えて夏樹は幸せね」

「ううん、きっと私の方が何倍も幸せだよ」


即答で返した私の頭に優しく手を置いて、葉子さんは声を出さずに笑った。

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