第4話 冬天 (1)

「いってきます」

「いってらっしゃい」


仕事初めの夏樹さんをいつものように手を振って見送った。あの一件以来私も夏樹さんも葉子さんの話をしていない。夏樹さんは私を拒絶した事に自分自身で酷く傷つき、落ち込んでいたが、ようやく立ち直ったようだ。


そんな彼女を裏切るような真似をする自分は、最低な人間なんだろう―


もし今からする事を夏樹さんに知られたなら、私は彼女から嫌われても仕方がない。それでも覚悟を決めて、私は部屋を出た。


一度だけ訪れた事のある部屋のインターフォンの前に立った。震える指先が、ボタンに触れるのを少しだけ躊躇わせる。

今なら引き返せる―そんな心の声を無視してボタンを押した。


「開いているわよ」


しばらく経ってから聞こえる小さな声に、目を閉じて大きく息を吐く。自分の心を落ち着かせてからドアノブを掴んだ。


「あら…」

「こんにちは」


ベッドにもたれるように座りながら煙草を手に持っていた葉子さんは、少し意外そうな表情を浮かべたものの、にこりと笑った。顔色は相変わらずだが、体調は良さそうだ。


「いらっしゃい」

「お邪魔します。体調はどうですか?」

「ふふふ、ありがとう。

ここに座って?お酒しかないけど、何か飲む?」

「いえ。あの、これ良かったら食べて下さい」


私から紙袋を受け取り、中を覗いた葉子さんは嬉しそうに笑った。


「美味しそうね、頂くわ。

綾乃ちゃんも食べない?」

「私、甘い物が苦手なので、遠慮しておきます」

「あら、それは残念ね」


私が買ってきたケーキを美味しそうに食べる葉子さんを見つめる。


「葉子さん、やつれているみたいだけど…

ちゃんとご飯食べてます?」

「ふふ」

「?」

「綾乃ちゃん、どうして私に構うの?」

「それは…」


言葉が続かない私を可笑しそうに葉子さんは見る。


「私と会う事を夏樹は知っているの?」

「…知りません」

「夏樹が知ったら怒るんじゃない?」

「私もそう思います…」


私の返事にくすくすと笑うと、最後の一口を食べ終えて満足げな様子で煙草に手を伸ばす。煙草を口に咥えライターを近づける彼女の横顔を見つめていると、ちらりとこちらを向いて微笑んだ。

そのまま、煙草の箱を私に向ける。誘われるまま一本手に取ると、恐る恐る口に咥えて、無言で火を寄せてくれる葉子さんの真似をして火を貰う。

そのまま吸い込んでみると口中に煙が広がった後、噎せて咳き込んだ私を葉子さんは笑った。


「美味しくなかった?」

「無理です、こんなの…」

「あら、残念ね。

貴女ならこれの美味しさが分かると思ったのに」


手に持った煙草をどうしようかと悩んでいると「無理に吸わなくて良いわよ」と受け取ってくれた。そのまま無言で一本吸い終わるのを待ってから私は彼女を見た。


「葉子さん」

「何?」

「夏樹さんに会ってもらえませんか?」

「…夏樹がそう望んだの?」

「いいえ」

「それなら会う必要はないわね」

「お願いします!」


葉子さんが私を見つめる。その表情は何も変わらないけど、私は視線を逸らさず見返した。


「お互い会いたくないのに、どうして他人の貴女がそれを望むの?」

「家族の話をする夏樹さんは、辛そうなんです。私に家族はいないからって…いつも寂しそうに笑っていました。

葉子さんと初めて会った時、夏樹さんが言ったんです。

何年も会っていなかったのにどうして分かったんだろうって…


きっと、夏樹さんは心のどこかでずっと貴女を望んでいたんだと思います。そうでなければ、何年も会わなかった人の顔なんて覚えていない筈だから…」


煙を吐き出し、煙草を揉み消した後、葉子さんは私に笑う。


「…例えあの子と会ったからといってどうすれば良いの?

私は夏樹から責められるのを、黙って聞いていれば良いのかしら」

「そんな事ありません!

葉子さんは自分で言いましたよね?夏樹さんに愛情はあったって。夏樹さんが分からないならお互いに話せば良いんです。

何度も話せば、きっと夏樹さんも分かってくれる筈です。


夏樹さんの気持ちを受け止められるのは、お母さんの貴女しかいないんです!

だから、お願いします!」


葉子さんは無言で煙草に火をつける。何も言う事のないまま、それでも私から視線を逸らさずに見つめ続ける。どのくらいそのままだったのだろう、葉子さんが口を開いた。


「貴女、夏樹とどんな関係なの?」


「夏樹さんは…私の恋人です」


葉子さんは目を見開いたものの、何も言わなかった。やがて、くすくすと笑い出す。


「綾乃ちゃん、恋人の夏樹に内緒で私と会って良いの?」

「…自分のしている事くらい分かっています。

責任は自分で取ります」


「そう…」


葉子さんは視線を合わせたまま、にこりと微笑む。その微笑みがいつしか妖艶な笑みに変わり、私の頬にゆっくりと指を這わせるのを、表情を殺しながらひたすら耐える。


「本当に貴女は可愛いわね…」


私の鎖骨に指先が触れ、葉子さんの顔が私に近づく。吐息が唇にかかり、彼女との距離が僅かになっても、私は動かなかった。


ふっと空気が緩み、葉子さんが身体を離すと可笑しそうに私を見た。身体中の力が抜け、思わず倒れ込みそうになるのを必死で耐える。


「綾乃ちゃんは、夏樹には勿体ないわね」


「…私の方こそ、夏樹さんが勿体ないです」


やっとの思いで返した言葉に、今度こそ葉子さんは明るく笑った。



「考えておくわ」

「えっ!?本当ですか!?」


しばらくして聞こえてきた声に、勢い込んで葉子さんを見ると、苦笑しながらも頷いてくれる。


「こんなに可愛い綾乃ちゃんにお願いされたら、嫌とは言えないわよ」

「えっ、あ、ありがとうございます…」


何と答えて良いものか迷う私を葉子さんが見る。


「ねぇ、綾乃ちゃん。

気が向いたらまた会いに来てくれるかしら?」

「えっ、はい…」

「貴女の時間がある時で良いわ。楽しみにしているわね」


そう言って笑う葉子さんの表情は、とても嬉しそうで、そして、夏樹さんにそっくりだった。


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