第3話 早暁 (3)
射し込む光に目を開けると、既に空は明るくなっていて慌てて時計を確認する。いつもより随分遅い起床なのは、久しぶりの独り寝が落ち着かず、なかなか寝付けなかったのが原因だろう。
「もうこんな時間…」
少し前までは独りでぼんやりと過ごすだけだった新年は、いつも憂鬱な気分だった。だけど、今年は綾乃ちゃんと過ごせるとあってずっと楽しみにしていた。その一方で、彼女が家族と過ごす時間を大切にしてほしい事も事実で、早く会いたい気持ちと気兼ねなく過ごしてほしいという二つの気持ちを抱えたまま、スマホを開いて、ついつい彼女からのメッセージが入っていないか確認してしまう。
今までも綾乃ちゃんが傍にいないことはあったし、いつも笑って送り出せていた。だけど、あの人と思いがけない再会をしてから、自分の心が不安定になっているのを自覚している。あの人はこの町に滞在すると言っていた。
たったそれだけの事なのに、理由も分からないまま小さく騒ぐ心が落ち着かなくて、綾乃ちゃんに早く会いたい。彼女が笑って抱きしめてくれたなら、もうそれだけで大丈夫だと思える気がした。
そんな事を考えながら何も手をつけられず、どのくらい時間が経ったのだろう。潜ったままの布団に、ふと彼女の匂いを感じた。
綾乃ちゃんの顔を思い出し、同時に彼女の言葉を思い出した。
-一人で抱え込んで傷つくのは許さない。私を頼って、利用して?-
以前にも同じ様に言われた言葉に、私は結局あの頃と何も変わっていない事を思い知る。年下の彼女に心配ばかりかけて、その度に甘えてばかりで、そんな自分が情けない。
私は彼女に頼るばかりじゃなくて、支え合える存在になりたいのだ。何度となく思い返した自分の決意をもう一度確かめてから、ぱんと頬を両手で叩いて気持ちを入れ替えると、起き上がってベランダから外を見る。
新しい年の初日は綺麗に晴れた穏やかな空で、しばらく眺めていると少しだけ気分が上向きになった。綾乃ちゃんは夕方に帰ってくる予定だ。それまでには気持ちを切り替えられるだろう…
冷たい空気を身体に吸い込んでから、遅めの朝食の準備に取りかかった。
「ただいま」
予定より随分と早く玄関から綾乃ちゃんの声が聞こえ、読みかけの本に栞を挟んで迎えに行った。バックと紙袋を抱えたまま彼女は私を見る。
「お帰り」
しばらく私を見つめた彼女は荷物を床に下ろすと、突然抱き寄せた。いつものハグとは違う抱きしめ方に戸惑いながらも、彼女に手を回す。首元に顔を寄せる綾乃ちゃんはしばらくその体勢のままでいたが、ゆっくり身体を離して笑った。
「綾乃ちゃん…?」
「ごめん、夏樹さんがいなくて寂しかったの」
「もうっ」
「明けましておめでとうございます、夏樹さん」
「あっ、おめでとうございます。綾乃ちゃん。
今年も宜しくね」
「ふふ、私こそ、宜しくね。
これ、お土産だよ。後で食べて」
「ありがとう」
何事もなかったかの様な綾乃ちゃんに安心すると、私は二人分のコーヒーを淹れるためキッチンに向かった。
たった数日しか離れていないだけなのに少しだけ感傷的になってしまう自分に呆れながらも、それでも彼女がいてくれることが嬉しくてコーヒーをテーブルに二人分置くと、綾乃ちゃんの直ぐ隣に座る。
ぼんやりとしていた綾乃ちゃんは、少し驚いた様に見るものの何も言わずに微笑んだ。
「ありがとう。
夏樹さんは今日どこかに出掛けたの?」
「ううん。特に用事もなかったし、明日二人で出掛けるつもりだったから、家にいたよ」
「そっか…そうだったね」
話ながら私の手を取り、指を絡める。私の指を優しく撫でる指先がくすぐったい。綾乃ちゃんはじっと私を見つめているだけなのに、何となく普段と違う気がして思わず呼びかけた。
「綾乃ちゃん?」
「ん?」
「どうしたの?
何だか少し変だよ」
「ふふ、ごめんごめん。
…ねぇ、夏樹さん」
「何?」
「キスして良い?」
「えっ!?」
突然のお願いに戸惑いながらも小さく頷くと、綾乃ちゃんは私を引き寄せて優しく唇に触れる。軽く触れただけで離れた彼女は、にこりと微笑んだ。
「好きだよ、夏樹さん」
「…綾乃ちゃん?」
いつもの明るい彼女ではなく、何かを確認するように真剣な眼差しで見つめる綾乃ちゃんに、何故か不安がよぎり、咄嗟に彼女の手を掴む。私の知っている彼女はこんな言い方はしないし、こんなキスをする人じゃない。
そんな私の表情に気がついたのか、少し躊躇った後、彼女は口を開いた。
「私、今日、葉子さんに会ったんだ…」
「えっ!?」
「コンビニに寄ったら具合が悪そうな葉子さんを見つけて、送っていったの」
「…」
思いがけない告白に頭が真っ白になる。そんな私をしばらく見つめたまま、綾乃ちゃんは思い切ったように告げた。
「あのね、夏樹さん。
一度葉子さんに会いに行かない?」
「…」
「一人で行きにくいなら、私が一緒に…」
「やめて!!」
声を荒げた自分に驚くと、綾乃ちゃんが驚いた様に私を見ていた。いつの間にか繋いでいた手を振りほどいて、彼女を突き飛ばしていたことに、さっと血の気が引いた。
「あっ、ご、ごめん…」
慌てて謝りながら、咄嗟の事とはいえ自分の行動が信じられなく、ショックで涙がぼろぼろと流れ落ちる。
「ごめん、ごめんね…」
「大丈夫だよ、夏樹さん」
酷い自己嫌悪に陥った私を綾乃ちゃんが抱きしめてくれた。彼女の優しい声に、それでも涙が止まらない。
「私こそ、ごめんね。
夏樹さんの気持ちを分かっていたのに…」
「本当にごめん…綾乃ちゃん…」
「私も、もう言わないから。
謝るのはこれで終わりにしよう?」
「うん…」
泣き顔の私を真っ直ぐ見つめて、微笑んだ綾乃ちゃんはいつもと変わらない笑顔を浮かべていた。しがみつくように抱きつくと背中をぽんぽんと撫でてくれる。「大丈夫だよ」耳元に優しく囁かれる声に、なかなか止まらない涙を閉じ込めるように身体を彼女に押し付ける。
「大好きだよ、夏樹さん」
押し付けた身体から聞こえる声にようやく顔をあげると「私も好きだよ」と答える。
「ふふ、ありがと」
嬉しそうな彼女が愛しくて、もう一度強く抱きしめると綾乃ちゃんは同じ様に抱き返してくれた。
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