第2話 早暁 (2)

夏樹さんが落ち着いてから予定を変えて家に戻り、私が簡単な食事を作った。夏樹さんは食欲なんてなかったのだろうけど、少しだけでもと無理矢理食べさせた。


「ごめんね、綾乃ちゃん…」


もう何度目か分からない謝罪に苛立ちを感じて、夏樹さんの唇を自分の唇で塞いだ。無理矢理のキスにそれでも抵抗しない夏樹さんを押し倒して貪るように乱暴に味わう。ようやく離すと肩で息をする彼女を見下ろし、感情を押し殺した声で告げる。


「お願いだから…もう謝らないで。

夏樹さんが話したくないなら聞かないよ。何か事情があるんでしょう?

だけど一人で抱え込んで傷つくのは許さない。

泣きたいなら抱きしめるし、言いたい事があるなら黙って聞くから。

私を頼って、利用して?

分かった?」

「…」


首だけで返事をする彼女に微笑むと、再び潤み出す瞳にそっと唇を当てて、夏樹さんを見つめた。感情に振り回される自分に嫌気がさすものの、反省なんて後ですればいい。


「こんな私は嫌い?」

「…」


首を横に振る夏樹さんに内心安堵する。イエスと言われたら私が泣いてしまう自信があったから…


「綾乃ちゃん…」

「何?」

「…ぎゅってしてくれる?」

「良いよ」


夏樹さんを起こすと優しく抱きしめる。苦しいくらい身体を押し付ける彼女は、そのままの体勢でぽつりと呟いた。


「私ね、高校生になった時、両親が離婚してあの人に引き取られたの」

「うん…」

「それから直ぐにあの人は家を出ていった…

家も、服も、私も…何もかも置いていったの」


「子供の頃をどんなに思い返しても、私は両親から愛情なんて貰ったことはなかったわ」

「…」

「だけど

だけど、どうして分かったんだろう?

もう何年も会っていなかったのに…夢にだって見たことすらなかったのに…

どうして私はあの人が母親だって気がついたんだろう

あの人は私が言わなければ、きっと分からなかった…

まるで、私があの人に未練があるみたいじゃない!

そう思ったら、悔しくて…」

「夏樹さん…」


嗚咽混じりに話す夏樹さんをただ抱きしめる。こんな複雑な心情に掛ける言葉なんて思い付く筈もなくて、私が出来ることは彼女を抱きしめる事だけだった。


「ごめん、じゃなくて、ありがとう。綾乃ちゃん」


しばらくして身体を離した夏樹さんは赤い目のまま弱々しく笑った。


「もう大丈夫。なるべく考えないようにするから」

「…それで、良いの?」

「うん、綾乃ちゃんも分かったでしょう?

あの人、私の事なんて全然心配していなかったし…」

「あ、うん…」

「だから、私も、もう二度と会わない」


確かに、何年も離れていた自分の娘に対する態度ではなかったと思う。夏樹さんの表情は、明らかな拒絶と嫌悪を浮かべていた。そんな彼女に何もしてあげれないもどかしさを感じながら、私は彼女を見つめていた。



それからは何事もなく過ぎ、夏樹さんが葉子さんの話題を口にすることもなかった。私は、予定通り年末から実家に帰って新年の挨拶を交わした後、夏樹さんを驚かせようと思って、彼女に連絡をしないまま家路に急いだ。早朝の町は車も人もおらず静けさだけが広がっていて、まるで新年に生まれ変わろうとしている様だ。

イルミネーションのあった大通りを抜け、誰もいないコンビニに車を停める。夏樹さんにお土産としてスイーツを買っていこうと車を降りると、駐車場の隅でコンビニの壁にもたれてうずくまっている女性が目に留まった。俯いて胸に手を当てている様子から具合が悪いのではないだろうかと思い、恐る恐る近づいて声をかけた。


「あの…大丈夫ですか?」


「…」

「!!

葉子さん!?」


のろのろと緩慢な動作で顔を上げた女性が、思ってもいない人物で思わず駆け寄る。真冬の冷たい朝なのに脂汗を滲ませながら、それでも葉子さんは私に微笑みかけた。


「あら…えっと…綾乃ちゃんだったわね。

…明けまして…おめでとう」

「…おめでとうございます。

葉子さん、救急車呼びましょうか?」

「大丈夫…すぐに収まるから…

折角だけど…遠慮しとくわ」


軽口で返す彼女は酷く苦しそうで、それでもきっぱりと拒否した。胸に当てている手をきつく握りしめ、荒い息をする彼女はここから動けないのだろう。


「私、車で病院まで送っていきましょうか?」

「…それなら、家まで…送ってくれれば良いわ」

「分かりました。少し待っていて下さいね」


車を寄せて葉子さんを抱えるように運ぶ。触れた身体は驚く程熱くて軽かった。葉子さんは助手席に倒れ込むように座ると、目を閉じたまま住所を告げた。私のアパートからすぐ近くのマンスリーマンションが葉子さんの新しい住居らしく、一人で歩けない葉子さんを抱えるようにしてマンションの中に入った。


「鍵は…この中」

「これ?」

「そう…」


鍵を受け取りドアを開けると、言われるまま彼女をベッドに運んだ。必要最低限の家具が置かれた部屋は、キャリーケースが隅に立て掛けてあり、テーブルの上に煙草の箱が幾つか置いてあるだけの生活感のない場所だった。

苦しそうな葉子さんを放っておけなくて部屋の中を見回したけど、薬も何もなかった。少しでもマシになればとぎゅっと目を閉じたままのおでこに、濡れたハンドタオルをのせる。ひんやりとした感触にうっすらと彼女が目を開けるのを見て、ベッドの側に膝をつき葉子さんを覗き込む。


「葉子さん、熱もあるのに本当に病院に行かなくて良いんですか?

私、付き合いますよ」

「ふふふ」


小さく笑う彼女の表情が、夏樹さんと重なる。


ああ、やっぱり母娘だ―


ぼんやりとそんな事を思う一方で、密かに驚愕もしていた。夏樹さんと並んだら年の離れた姉妹と言っても通りそうな程、葉子さんは若々しかった。

この人は何を思って夏樹さんから離れたのだろう…


「ただの通りすがりに、随分親切なのね…」


痛みが落ち着いたのか、少しだけ穏やかになった呼吸の合間にそんな言葉がこぼれた。


「それは、だって、夏樹さんのお母さんですから…」

「あら、夏樹から私の事聞いていないの?」

「…聞きました」

「それなら、話は早いわね。

助かったわ。もう十分よ、ありがとう」


にこりと笑う彼女は、何の屈託もない笑顔でお礼を言う。そんな彼女に思わず問いかけた。


「どうしてですか?」

「?」

「どうして、何事もなかったかのように過ごせるんですか?

夏樹さんは貴女の娘でしょう?

夏樹さんと再会出来たのに何も思わないんですか?」

「それは勿論、成長したなぁって思ったわよ」

「えっ…」

「夏樹は今、働いているの?」

「は、はい。図書館の司書をしています」

「へぇ、立派じゃない。良かったわ」

「…」


呆気に取られる私に構うことなく、ゆっくりと起き上がると「煙草取ってくれる?」と声をかける。言われるまま箱を渡すと「ありがとう」と微笑んで箱を開けた。綺麗な動作で美味しそうに煙草を味わう葉子さんを見つめていると、可笑しそうに笑う。


「綾乃ちゃんは可愛いわね」

「へ?」

「恋人はいるの?」

「…います」

「そうでしょうね」


くすくすと笑う葉子さんは何も言わない。沈黙の中で煙草をゆっくり吐き出した後、葉子さんはようやく口を開いた。


「恋をするのは素敵だと思わない?」

「…思います」

「誰かを好きになって、好かれて、触れ合って…

自分の人生が大きく変わる気がする。この人以外何もいらないと思えるわ。

だけど、それが永遠に続く訳じゃない…」

「…」

「結婚して家庭が出来て、毎日の生活に追われる。胸がときめくようなことも、悩んで眠れなくなることもなくなる。

…私はもっと色々な恋をしてみたかったの」


「だからって、夏樹さんを置いていかなくても良いじゃないですか!」

「夏樹の人生は夏樹のものでしょう?

私の勝手で振り回す訳にはいかないじゃない?

だから義務教育までは面倒みたわよ」

「そんなのおかしいです!

だって、貴女は夏樹さんの母親でしょう?

…家族ってそんなに簡単に捨てられるものなんですか?」


詰め寄る私に、葉子さんは微笑ましいものを見るような眼差しで笑う。


「ねぇ、綾乃ちゃん。

家族って何かしらね?」

「えっ?」

「血が繋がっていれば、それが家族なの?」

「…」

「私はそれだけで縛られるような関係なら要らないわ」


葉子さんは言葉を失う私を見ながら、面白そうに煙草を燻らせる。


「…貴女は、夏樹さんを愛していなかったんですか?

夏樹さんが言っていました。

自分は愛情を貰ったことはないって」


「それは勘違いね」


私を真っ直ぐに見て葉子さんは笑う。


「愛の定義なんて人それぞれじゃない。世間一般の定義が全てじゃないでしょう?

私は私なりに愛情をあげた。夏樹はそれに気づかなかっただけよ。

そうでなければ、夏樹がまだ小さい頃に私は家を出ていたから。

そうでしょう?」


葉子さんは当たり前の事を教えるかのように、にこやかに話す。彼女の言っている事は聞き取れている筈なのに、理解出来ない。パンクしそうな思考回路の中で思わず言葉がこぼれる。


「…私には分からないです」

「何が?」

「葉子さんの言っている事…」

「ふふふ」


葉子さんは煙草を揉み消して、俯く私の顎に手を寄せた。驚く私に構わず顔を近づけ、夏樹さんそっくりな眼差しに、彼女にはない妖艶さを纏わせ、お互いの鼻が触れてしまいそうな距離で私に笑いかける。


「貴女は本当に可愛いわね」

「!?」


慌てて離れながら、どきどきする自分が何となく悔しくてきっと睨むけど、葉子さんはくすくすと笑いながら煙草をもう一本箱から抜いた。

何か言おうとした途端、スマホが突然メロディを流した。バックを押さえた私に、葉子さんは笑いかける。


「楽しかったわよ、綾乃ちゃん。また遊びにいらっしゃい」

「…来ても、良いんですか?」

「構わないわよ」


友人の様に手を振る葉子さんに挨拶をして、車に戻ってシートに身体を預けると、大きく息を吐いた。スマホを見ると夏樹さんから新年のメッセージが届いている。

葉子さんと会ってから一時間も経っていないのに、身体が疲労感で包まれて動きたくない。頭の中はぐちゃぐちゃで、酷く混乱している自分がいる。


「夏樹さん…」


目を閉じて名前を呟くと、夏樹さんの顔と葉子さんの顔が重なった。


(こんな状態じゃ夏樹さんに会えない…)


夏樹さんに返信するとスマホをしまい、自宅に車を走らせる。

部屋に入り、何もかも投げ捨てて冷たいベッドに身体を埋めると、ぎゅっと目を閉じた。


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