第4話

 夕映えがDr・アベルの居る研究室の小さな窓から赤く染み込む。

 Drは無言で壁の鏡を見詰めていた。


「………」


 徐にDrは開口して何かを呟いたが、その僅かな呟きは夕映えの中に消えていった。

 只、彼の瞳の悲しげな色のみが、彼の過ちに対する苦悩を物語っていた。

 Drはやがて踵を返して鏡を背にし、実験台の上に置いていたファイルを手に取った。

 ――刹那。

 Drは背後より柄も知れぬ気配に襲われ、慌てて振り返る。

 己の顔が映っていた。

 しかし、彼は不敵な笑みを浮かべて、唖然とするDrを見詰めていたのである。


「ば……莫迦……な そんな!」


 Drの顔が見る見る内に青ざめていく。

 彼は一歩、前に出た。

 彼は――ニ次元の彼ではなかった。

 今、Drの目前には、もう一人のDr・アベルが存在していたのである。


「お……お前は……誰だ?ま……まさか……?」


 Drは思わず後退りを始める。

 もう一人のDrも、彼の影の如く、又、一歩前に進む。


「……幽霊……か?」


 Drの視界が、眩暈によって激しく揺れる。

 これは過言ではない。今、Drににじり寄るこの影には生気の色は全く無く、その限りなく白に近い蒼い肌と澱んだ眼差しは、周囲の空気を冷やかなものに変えていた。

 そして紅く燃える夕映えすらも彼に映える事なく、そこには何も存在していないかの様に、彼の背後の壁は紅く照らされていたのである。


「……ぅうわあぁぁぁ――っ!」


 Drは激しく震える右手で腰のホルスターからベレッタを引き抜き、眩暈で狙いも定まらないにも拘らず、無我夢中で目前の己に銃口を向けた。

 パン。

 ベレッタが呪詛の火を吐く。

 しかし、所詮は「人」殺しの道具。

「人」でないものを、如何にして殺せるものか?

 彼の胴体が少し掠れ、半透明になった所を銃弾が通り抜け、その背後の鏡を撃ち砕いた


「――矢張り……お前はあの男の幽霊なのか?」


 Drは胸に軽い痛みを刹那に覚えつつ、銃口を彼に向けたまま恐怖におののいた。

 彼は、又、一歩前に進む。

 Drは、又、一歩後退りする。


「お前は……俺を殺しに甦ったのか?」


 Drは狼狽しつつ詰問した。

 しかし、彼は無言のまま、只、Drに冷笑

を浴びせながら見詰めていた。


「ああ……!」Drは絶望を孕んだ溜め息を洩らして俯く。「又……俺はあの男に殺されようとするのか……あの時の様に!」


 絶望と恐怖にうちひしがれるDrの首元を彼はその白い手で愛惜しげに捕らえた。

 弾は貫通する彼。しかし、Drを捕らえるその手に手応えはあった。


「つ……冷たい?」


 Drは首を絞められる苦痛を上回るその手の得も知れぬ冷たさに身震いした。

 彼の手に力がこもる。とても重く、そして冷たい。

 Drも苦し紛れに彼の首に手を掛けて抵抗

した。

 すると不思議な事に、彼の首は手で捕らえる事が出来たのである。

 Drの手に力がこもる。とても重く、そして温かい。

 二人の各々の手に込められている力がほぼ同じである事を、Drは苦痛の中で実感した。


「……嫌……だ……!」


 Drは苦悶に呷いた。


「何故だ……何故、俺だけがこんなに苦しまなければならないのだ?神の領域に踏み込んだお前が全て悪いのだぞ! 俺は……俺は……」


 Drは力を振り絞る。


「俺はお前の玩具ではない!」


 ――刹那。彼の体が、まるで霧の様に四散したのだ。


「な……何?」


 Drは咳き込みながら仰天する。

 室内には、只、硝煙の香が静かに漂っていた。


「い……今のは一体何だったのだ?」

「『ドッペルゲンガー』」


 Drはその声が廊下から聞こえた事に気付いた。聞き覚えの新しい声だった。


「君は……!」


 声の主が入室して来た。

 己を警護するCIAの美丈夫、J・B。彼は平然とした面持ちを以て現れたのである。


「今の、もう一人の貴方は幽霊ではありません。――否、半分はそうですが」

「な……何を言っているのかね……?」


 Drは動揺を隠そうとして笑って見せた。

 しかし、J・Bは平然とする顔を変える事はなかった。


「あのDrの正体は、Dr・アベル、貴方自身の心霊体を用いて造り出された、もう一人の貴方なのです」

「ド……ドッペルゲンガー?」


 Drは呆然となる。


「は……はは……。な、何を莫迦な……そんな非科学的な事、誰が信じられるか」


 Drの嘲笑に、J・Bは肩を竦めた。


「では……」


 言うや、J・Bは掌を前にかざす。

 すると、その掌より白い泡が吹き出し始め床に滴り落ち出したのである。


「な……何だ、それは?」


 驚愕してその泡の海を見詰めるDrは、その床に広がる白い泡が盛り上がり始め、やがて、それがそそり立って人の形を成す奇怪な現象を目の当たりにして慄然としてしまった

 白い泡より生まれし人――Drの目前に、再度もう一人のDrが出現したのである。


「私は心霊体を自在に操る力を持っています。これは貴方の心霊体を少し拝借して造り出したDrの影なのです。

 決して、あの男の幽霊ではありません」


 J・Bの冷淡な面持ちから発せられたその言葉に、Drは背筋に冷たいものを覚えた。

 J・Bは掌を振り上げて、滴る心霊体を払い落とす。


「あの男の幽霊は――貴方だ」


 J・Bが言い切ったのと同時に、Drは透かさず手にするベレッタの銃口をJ・Bに向けようとする。

 だが。


「う……動けない?」


 Drの肢体が突然麻痺して動けなくなってしまった。

 そして不意に襲って来た原因不明の激痛に、呷きを上げる声すらも自由を奪われてしまったのである。


「動けまい。まるで魂を引き裂かれる様な痛みに声も出まい」


 J・Bは不敵な笑みを洩らした。


「――これぞ我が得物、『霊糸』」


 J・Bは徐に右手を差し向けた。その指先から、僅かに煌めく極細の糸が己の肢体と繋がっているのをDrは気付いた。


「今、貴方と私を繋いでいるこの糸は、この世のものに非ず」


 J・Bは「霊糸」を放つ右手を降ろす。「霊糸」もそれに従って降りると、DrとJ・Bの右手の間にある実験台が障害物となった――ハズが、「霊糸」はまるで何も無い様に、実験台に微動だにせず染み込む様に通り抜けてしまったのである。


「心霊体で造り出されたこの糸には物理的法則は全く無効。

 だが、精神的なものには有効であり、即ち、この糸は生命体の魂を束縛し、引き裂くことが出来るのだ。そして――」


 J・Bの右小指が僅かに動く。

 ベレッタを持つDrの右腕に「霊糸」が走るや、その軌跡に掛かった腕から鮮血が飛び散ったのだ。

 Drは、しかし既にそれ以上の激痛を覚えていて声は出なかったが、明らかにその顔は驚愕していた。


「肉体は魂に殉ずる。魂が引き裂かれると、肉体も同様に引き裂かれるのだ。

 催眠術に掛かって火傷を負う暗示を受けた者が、何ともないハズなのに皮膚に水腫れが出来る事がある。『霊糸』の力はそれと同じなのだ」


 J・Bが言葉を締めると同時に、Drは右腕の流血と、己の肢体を支配していた激痛が止んだ事に気付く。


「い……痛みが消えた……腕の傷まで消えている?」


 Drは安堵の息を洩らし、そして慌ててJBを見る。

 J・Bは超然とした面持ちでDrを見ていた。


「……矢張り……CIAは気付いていたのか?」

「ええ」


 そう言ってJ・Bは己の口元を指した。


「虫歯……これで判ったんですよ。事件の後、貴方の体を身体検査した時に気付いたのですが、貴方のクローニングを開始して間もなく、本物のDrは右奥歯の虫歯を治療していたんです。

 貴方の元となった細胞が虫歯を未治療だった時点の遺伝子情報を記録したDNAを持ったものだから、虫歯のままの複製体となったんですよ」

「はっ……」


 Drは慌ててベレッタのグリップを握り締めたまま己の右頬を摩って見る。そして、二三回摩った後、苦笑を洩らしてベレッタを実験台の上に置いた。


「……はん、問うに落ちず語るに落ちたか」


 そう洩らして、Drは訝しげな視線をJ・Bにくれる。


「しかし、そこまで気付いておきながら、何故、今までこの私を放置していたのかね?


 Drの問いに、J・Bは首を横に振る。


「只、放置していた訳ではありません。今回の事件、事が事だけに確証を完全に得るまで調査する必要があったからなのです。――何より、複製体が本体を殺した理由を知る為に」


 J・Bの言葉に、するとDr・アベルの顔を持つ彼の表情が邪に歪んだ。


「くっくっくっ……ふっ……はっはっはっ! 複製体がDr・アベルを殺した理由、だと?」


 複製体の嘲笑に、しかしJ・Bは何も応えずに静かに佇んでいた。

 複製体は狂った様に笑い続け、やがて息を切らして笑うのを止めた。


「実に愚問だ。そんな事を今更知って何になる?」

「返答如何では――お前を処分する」


 J・Bの声が冷たく響く。


「……良いだろう」


 複製体に動じる気配は無かった。


「確かに、私はDrの首を絞めて絶息したのは事実だが……私の首にも締められた痕がある事実を忘れては困る――そうとも、私達は互いに殺し合っていたのだよ!」

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