第3話

 白衣を羽織ったDrアベルは、陸軍生体化学研究所の一角にある部屋に佇んでいた。

 その室内には、数日前に起きた惨劇を一片足りとも残す事なく、資料や実験器具の納められている

 戸棚の隣の壁に掛けられている大きな鏡は、窓の外より漏れる日差しを受けて静まり返っている。

 Drは床のタイルの透き間に僅かに残された血痕を見付け、その側にしゃがんだ。小指でそれに触れようと試みるも、相互のサイズの違いはその行為を徒労に終わらせた。


「――うっ?」


 その時、不意にDrは眩暈を覚えて膝を思わず床に落としてしまう。

 Drは慌てて懐に手を入れ、そこから煙草箱大の小箱を取り出し、その中に入っていた錠剤を摘もうとした。

 しかし、余程慌てていたのか、Drは手を滑らせてその小箱を落としてしまい、中に入っていた錠剤は床に溢れて四方に広がって行った。

 顔を蒼白させながらもDrは必死にそれを震える指先で掻き集めようとした、その時であった。


「――これを」


 背後から来た声は、その手に、小箱に入っていた錠剤と同じ物を幾つか乗せて、それをDrの目の前に差し出して来たのだ。

 Drは慌ててその錠剤を引ったくる様に掴み、慌ててそれを口に入る。そして、次に目の前に差し出されたスキットルも引ったくり中に入っている水を一息に飲み干した。


「大丈夫ですか?]


 漸く落ち着きを取り戻したDrは、背後の聞き覚えの新しい声に慌てて振り返った。


「……良かった。あの事件の後遺症で、自律神経失調症に罹っていらっしゃる事を聞いていて、予備の薬を持っていたのですよ」


 美影が安堵に綻んでいた。そこには、チェスト・ホルスターに入ったベレッタM92を手にしたJ・Bが佇んでいたのである。


「……君か。済まなかった」

「否。これも仕事の内ですから。――処で先刻の襲撃の件ですが、矢張り、『白十字軍』の仕業でした。

 三十分程前に、既に殺人と違法重火器の所持の件で内偵していたFBI(米・連邦警察)と協力して彼らの本部を強襲して制圧したそうです。

 しかし、私がお仕置きした黒服は未だ逃亡中で、彼らの仲間の話では私達に必ず復讐する、と言っていたそうです。

 お騒がせて申し訳ありませんが、彼が捕まるまでは引き続き私が護衛致します」


 J・Bは済まなそうに言った。

 そんな美丈夫を見て、Drは肩を竦めて失笑する。


「何、此処は軍基地の一角だ。無理に付き纏わなくとも大丈夫のハズだ」


「……判りました」


 J・Bは苦笑を洩らした。


「でも、念の為……」


 そう言うと、J・BはベレッタM92をDrに差し出した。


「護身用に、この銃をお使い下さい」

「でも、君のは……?」

「ご心配無用。私専用の得物は持っております」

「得物……」


 Drは先刻の襲撃の事を思い出した。

 あの、得体の知れぬ光の糸を。


「それに、私は銃は好きじゃないんです。あの鉄の黒さと冷たさが、如何にも人殺しの道具にしか見えなくて」

「人殺しの道具……か……」


 Drは溜め息を洩らし、ベレッタ入りのチェスト・ホルスターを腰に装着した。

 J・Bはそれを見届けてから、徐に室内を見回した。


「Dr……此処であの事件が起きたのですね」

「ああ」


 Drは感慨深げに洩らした。


「此処で……私はもう一人の私を殺した」


 Drは傍にある実験用テーブルの上に片手で凭れ掛けて室内を一望した。


「……私は遺伝子工学の研究の一環として、生物の複製実験を行っていた」


 Drの視線のベクトルが床の血痕に移る。


「丁度、あの辺りに、今は撤収されてしまったが、大型の人工子宮槽が設置されていたのだ」


 Drは視線の果てに向かってゆっくりと歩き出した。


「先ずは、モルモットの実験に成功し、続いてチンパンジー、イルカも成功した。更に子宮槽内の人工羊液を改良し、短期間で成長させる事にも成功した……」

「そして、Dr自身が、人間の複製の実験体となったのですか」


 J・Bの問いに、Drは静かに頷いた。


「……科学者の性……否、労を焦り過ぎたのかも知れない。・・既に、この実験が失敗である事に気付いておきながらな……」

「失敗?」


 J・Bは訝った。


「複製は取れているのに、何故?」

「既に複製の取れていたモルモット達に異常が見られたからだ」

「異常?」

「ああ。モルモットの実験に成功して一週間ぐらい経った日の事だった。

 私は複製モルモットをオリジナルの入った飼育槽に入れて保管していたのだが、チェックの為にそれを取り出した時、その中でオリジナルとコピーが互いの喉笛を噛み合って死んでいたのだ」

「共食い……ですか?餌はちゃんと与えていたのですか?」

「勿論だ」

「では、何故、そんな事に……?」


 J・Bの問いに、Drは溜め息を洩らして応える。


「……君は、もし仮に、だ。目の前にもう一人の自分が現れたらどうする?」

「そうですね……彼とチェスでもしますか」


 J・Bははにかむ様に微笑んだ。


「ふっ」


 Drは失笑した。


「その勝負の決着は着かんだろうな」

「多分」

「多分、ではない。絶対、だ」


 Drは吐き捨てる様に言った。


「では、何故、モルモット達が共食いを起こしたのか、君には判るかね?」

「……いいえ」


 Drの質問にJ・Bは思わずどぎまぎしてしまう。

 Drは、J・Bのそんな反応を楽しむ様にほくそ笑む。


「自然界の動物は、その頂点に立つ愚者共を除いて、無闇に共食いをしたりはしない。

 その様な事が起きる原因として、大抵、環境の変化によるストレスから来る事が多い」

「ほう、モルモットも一人前に苦悩するんですか?」


 J・Bはそう言って、徐に傍の壁に掛かってある鏡を見た。

 二次元の世界からも、彼は己に瓜二つの三次元の美丈夫を感慨深げに覗き込んでいる。


「君は、自分が憎いと思った事はないかね?」

「さあ?私はもう一人の私に会った事が無いから、そういう風に思った事がありませんが……」

「そうか。では、君は、人間の殺し合いをどう思うかね?」


 Drは少し声を籠らせながらJ・Bに訊く


「……返答しにくい質問ですね」


 J・Bは肩を竦めて苦笑する。


「私の様な者が偉そうに言えるものではありませんが……愚行ですね」

「……ああ」


 Drは憂いを顔に現わす。


「食らう為に殺すのでもなく、只、己の利益の為に殺す……。何故にそうしてしまうのだろうか……?」

「さて。これ以上はお邪魔になりますね。外で警護を続けます、それでは」


 J・Bは仰々しく会釈して退室しようとしたその時、Drは慌ててJ・Bを呼び止めた」


「何でしょうか?」

「君はカソリック信者かね?」

「否。神仏の類は信用しない質で」

「そう。私は信者でね」


 言うや、Drの顔が曇り始める。


「――私は、『殺人』と『自殺』という、主の教えに反する事を犯してしまった。だから『白十字軍』は私を許せないのだろう。複製とはいえ、彼は紛れもなく私であり、一人の人間であった……。そんな彼の……人間の尊い命を奪ったこの私は、いつか裁かれるだろうな……」


 Drは果てしない彼方を遠望する様な眼差しをもって嘆息した。


「誰にも裁けはしませんよ」


 J・Bは肩を竦めた。


「かつて、神が与えた、ある男が犯した罪に対する贖罪を、我々は未だ背負い続けているのですよ。それを贖い切るまでは、決して我々に裁く権利はありません」


 J・Bは冷めた口調で言う。

 そのJ・Bの言葉に、Drは思い出し笑いをした。


「私の名は伊達ではない、と言う事か」


     *    *    *


 かつて、一組の兄弟がいた。


 彼らの犯した罪を、人は今も背負っている

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