第2話
その日も、バージニアの空は蒼く澄み渡っていた。
いかにも、米国の中流より少し上のランクの者が住んでいそうな、広い庭園を構えた邸宅の玄関で、一人の壮年の紳士が愛する妻や子供達からお出かけのキスを受けている様子を、邸宅の前の道路に停めていた赤いポルシェの運転席より見ている一人の美丈夫が居た
プラチナ・ブロンドの長髪を持ち、ライトブルーのタキシードを着こなす美丈夫は、先程の紳士が家の門に近付いて来る事を認め、車を降りて紳士を迎えた。
「Dr・アベル、ですね?」
「……ああ?」美丈夫の不意の問いに、Drアベルと呼ばれた紳士は頷きはしたものの少し後ずさりして彼を警戒する。
「失礼」
美丈夫はDrの警戒心を察し、魅力的な苦笑を浮かべて懐より身分証明書を取り出してDrに見せた。
「CIA(米・中央情報局)の使いで来ました、J・B、と申します。Drの警護の任を受けております」
「CIA……!」
Drは美丈夫の正体に胸を撫で下ろす反面驚きもした。
「CIAが動くとはな……あの事件は、いろんな方面に影響を与えてしまった様だな」
「研究所へは、私の車でお送り致します。どうぞ」
J・BとDrはポルシェに乗った。Drは助手席に座り、車中より家族に手を振ってみせた。
「綺麗な奥様ですね。お子様もお二人とも健やかで、羨ましい限りです」
J・Bはそう言って微笑んでDrの家族に車中より会釈し、車を発進させた。
「J・B君、だったね」
「はい」
Drの問いかけに、J・Bは前を向いて運転したまま頷く。
「見た処、中々の男前だが、結婚はしているのかね?」
「否」
J・Bは破顔した。
「こんな危なっかしい仕事をしている内は、嫁さんなんか貰えませんよ」
「危ない仕事か……」
Drはその言葉を吟味する様に呟いた。
「……今の私は、君以上に高いリスクを背負った仕事をしているのだったな……否、してしまったのだったな――痛っ!」
突然、Drは頬を押さえて眉を顰める。
「虫歯ですか?」
「……ああ。奥歯に二本程ね」
「そうですか……」
J・BはDrの返答に、何処か寂しそうな貌を浮かべて暫し沈黙した。
「……処で、先日脅迫文が届いたそうで?」
「ん……あ、ああ、」
Drは背広の内ポケットよりシガレット・ケースを取り出す。そして中身の一本を引き抜いて口にし、火を灯して紫煙を吐く。
「『白十字軍』……でしたね。カソリック系の教徒で結成された宗教結社……。その実体は極右嗜好の莫迦どもが集まって、武力で主の教えを広めようとするテロリスト、CIAと過去に何度か小競り合いがありましたよ。
しかし、名前からして悪い冗談だ。時を経ても今だ狂信者たちは妄執に取り憑かれているのですかね」
J・Bはハンドルを巧みにさばきながら嘲笑を洩らした。
「世界各国の人権保護団体からも、毎日の様に彼らから来た脅迫文に負けるとも劣らない内容の抗議文が来ているよ。悪い冗談なら後者の方が上だ、私の人権を無視しているのだからな」
Drは失笑して、煙草の火を灰皿で擦り消す。
車のエアコンに飲まれて消え行く煙草の残り香の中で、J・Bは遣り切れなさそうに嘆息した。
「……本来ならば、Drは賞賛を浴びるべきなのに、何処でどう狂ったのか……」
「仕方ないさ」
Drは肩を竦めた。
「結果が悪かったのだ。私が、彼をこの手で殺してしまったのだからな……」
Drは前方から迫り来る景色から目を反らす様に俯き、己の両掌をじっと見詰めた。
「あれは正当防衛です。裁判でも、そう判決が下されたではありませんか」
「茶番だね」
Drは忌ま忌ましげに呟いて首を横に振る。
「あんな判決なんか、現状の法律では裁く事が出来ない、御座なりな言い訳にすぎんよ」
「……確かに」
J・Bは失笑した。
「自殺を裁いて糾弾するなんて、愚の骨頂だ」
Drはシートに背を凭れて、大きく溜め息をついた。
「……己の複製体を、この手に掛けた事は……まるで悪夢を見ていた様だ」
Drの嘆息を耳にした時、ふと、J・Bはバックミラーに映る一台の黒塗りのベンツを認めた。
ベンツは徐々にスピードを増し、ポルシェの右脇を追い越す。
すると突然、ベンツのドアから、中央に白地の十字が付いた黒いマスクを被った黒服の男が、左手に持っている、本体よりも大きい消音器を装備したイングラム・モデル10を付き出してポルシェに撃ち放ったのである。
「うわああっ!?」
「停めます! 頭をフロント・ガラスにぶつけない様に注意して下さい!」
J・Bは横目でDrの体がシートベルトで固定されているのを確かめて、ハンドルを大きく切る。
幸い、ドアはウインドーを出して締め切っていた為、銃弾は耐弾コーティングしてある防弾ガラスを割ることなく、その表面に擦り傷を付けるだけに留まった。
銃火は運転席への直撃を回避したが、凶弾は「ブブブッ」と、鈍い音を立てながらポルシェのサイドボディを嘗めて着弾し続けた。 J・Bは急ブレーキを掛け、ポルシェはスピンして漸く止まる。しかし、ベンツも先の車道に止まり、凶弾で容赦なくポルシェを攻め立てていた。
「き、君!」
「大丈夫。この車は耐弾処理を施しております」
狼狽するDrを尻目に、J・Bは呑気そうにフロントガラスを指して、それに傷一つ入っていない事を示した。
「何、じきに止みますよ」
J・Bはまるでこの銃火を楽しんでいるかの様に笑って見せた。
Drはこの時、この超然とする美丈夫の肩の辺りより、フロントガラスを貫いて敵のベンツへ流れている微細な糸の様な煌めきを認めたが、それが何であるのか、彼にはその時は判らなかった。
果たしてJ・Bの予告通り、銃火は止んだ。
Drは不思議に思い、恐る恐るフロントガラス越しにベンツの方を覗く。
ベンツの手前の路上には、未だ硝煙を漂わすイングラムと、そのグリップを握り締めている血まみれの左手首が転がっていた。
ベンツの中には、変わる事のない黒と白の顔を小刻みに震わし、手首の失われていた左腕を右手で掴んで嗚咽する黒服の男がいた。
J・Bはその様子を見て、屈託のない微笑を浮かべた。そしてのうのうとポルシェを降りてベンツの黒服を見遣る。
「痛かろう? でも、ろくな挨拶もせずに、いきなり鉛玉をプレゼントする君が悪いのだよ。まあ、初犯だから大目に見るとして、今度私達の前に現れた時は、命は無いと思え」
J・Bはとても凄んでいるとは思えない様な微笑を浮かべながら言い、そしてポルシェの運転席に戻って発車した。
Drは余りの事に飽気に取られてJ・Bの顔を見ていたが、バックミラーに映るベンツの姿が点になった頃、漸く我を取り戻した。
「い……今のは一体?」
「軽いお仕置きですよ」
J・Bは微笑を以て応えた。
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