贖罪
arm1475
第1話
鎮魂の鐘の音が、バージニアの地を覆う蒼穹に響き渡っていた。
小高い丘に設けられた墓地を、そよ風が吹き抜ける。
風の行く先には、一人の美丈夫が静かに佇んでいた。
スリーピースの礼服に身を包み、腰まである襟足より伸ばした美しくきらめくプラチナ・ブロンドの美丈夫の長髪の先が、花の香を湛えた春のそよ風に小気味良く揺れていた。
彼は小一時間、その場に佇んでいた。
その場で沈黙を保つ美丈夫は、まるで何かの刹那を待っている様であった。
静寂が心地よい風に流れていく。
突如、一発の銃声音が鳴った。
美丈夫は、その銃声音と同時に、その場から飛び退いて墓石の群れに身を潜める。
間一髪。美丈夫の立っていた背後の墓石が、何処からともなく飛んできた銃弾の直撃を受けて上半分が破壊された。威力からして恐らくは大口径の銃弾であろう。
砕かれた墓石の破片が、墓石の群れに身を潜めた美丈夫の背に降り注ぐ。
しかし既に、そこに屈んでいたハズの美丈夫の影は欠けらもなかった。
銃声の轟いた、美丈夫の佇んでいた通路から離れた墓地の一角に、墓石に背を凭れ掛けて腰を下ろしている、紺の背広を着た若い男がいた。その右手には、四十五口径(コルトガバメント)が握り締められていた。
男の左腕には、薄汚れた包帯が巻かれていた。男の左手首から先は失われていて、その傷口を覆っている所は赤くにじんでいる。
男の顔は青ざめていた。だがそれは、左手首の傷がもたらしたものではなく、明らかに何かに怯えている様子であった。
男は怯えた眼差しで、背中の墓石越しに辺りを警戒し見回す。
辺りは、銃声が轟く前と同様に静まり返っていた。
「……奴は……奴は何処に隠れた?」
四十五口径を手にする男の手が恐怖にわななく。下手をすると過ってトリガーを引いてしまい兼ねないくらいの震えであった。
そんな時であった。
男の後方で、子供の声が聞こえてきた。
「!」
男は慌てて声の聞こえた方向を、背中の墓石越しに見遣った。
その先にある、丘の上に登る墓地の通路には、沈んだ面持ちの、二人の子供連れの喪服姿の若い女が居た。
「へへっ」
男はその姿を認めて小声で歓喜する。
そして、再び辺りを忙しく見回し、手にしている四十五口径のグリップを強く握り締めた。
だが、右手の震えはまだ納まらず、男は「Shit!」と舌打ちして、左手でその震えを押えようとする。
その震えを押えようとする為の、肝心の左手は手首から失われていた。
「…………!」
男の顔に、みるみるうちに怒相が広がる。
「ガッデッムっ!」
怒相のまま、男はやにわに墓石の影から立ち上がる。
そしてすかさず、子連れの喪服の女に向かって銃口を向けた。
――刹那。
銃口と喪服の女の間に、一つの青白い人影が立ちはだかった。
「――?!」
その影を認めた男の顔から瞬時に怒相が消え失せる。
代わりに、再び恐怖の色が閃いた。
「……な……何だ?」
男は青白い人影の姿を認めて唖然となった。
影の姿。――容姿、服装、左腕に巻かれた包帯、そして、失われている左手首。
何れも唖然とする男と全く同じ姿をしていた。
あろうことか、男は己自身と向かい合っていたのだ。
「…………な、何で、墓場に鏡なんか置いてあるのだ?」
困惑する男は、目前の、鏡と認識したもう一人の自分の姿を見詰めた。
だが男は既に、左右が逆に映えるそれが決して鏡でない事は判っていた。
理解しがたい点が二つあった。
もう一人の『男』の肌の色は異常なまでの白さで、澱んだ両目から繰り出される眼差しの何と冷たい事か。まるで死人である。
そして『男』の足下にあるべきもの。
影が、無かったのだ。
「う――失せろっ!」
男は『男』の腹部に一発撃ちこんだ。。
銃弾を受けて、男が前のめりに倒れた。
『男』ではない。
今、『男』を撃った男が倒れたのである。
「……な…………な、何だ?」
何が起こったのか男は判っていなかった。
しばらくして、男は自分の腹部に激痛を覚え、銃を握り締めた右手で腹部を探った。
朱色の生温かいものが、男の腹部に広がっていた。
その生温かいもの、は銃を握り締める右手に染み込み始め、やがて四十五口径のグリップが激痛と脱力感を伴って油を注がれた様に滑り易くなり、ズルリ、と右手から零れ落ちた。
地に落ちた四十五口径とそれを手にしていた右手、そして男の腹部は血に染まっていた生臭い匂いが鼻を突くが、次第にその匂いも判らない程、意識が薄れ始めた。
「ば……莫迦……な? 何で、俺が銃弾を受けていなけれゃならないんだ?……俺が……撃ったんだぞ……?」
「お前は、お前自身を撃った」
澄んだ、しかし冷たい声が、激痛に呷く男の鼓膜を打った。
男は、はっ、となって面を上げる。
男の目前には、あの死人の様な『男』の姿はかき消えていた。
そこには、男が最初に撃ったあの美丈夫が、男を見下ろして佇んで居たのだ。
「き……貴様!」
男は精一杯の怒りを露にして美丈夫を睨む。しかし、それは一矢を報いる気力がない程の弱々しいものであった。
「汝の隣人は愛せても、己だけは愛せぬ、か」
美丈夫はそう言って呷く男の姿に冷笑を浮かべた。
文字通り見下すそれは、男から見れば、死神がくれる永劫の安らぎの誘い以外何物でも無い。
「ぬ……ふぅ…………ぬぅぅおおおおおおっ!」
男は気力を振り絞り、地面に転がる四十五口径を掴み上げようとした。
「生憎だが、私は貴様の様な隣人を愛する事は出来ない」
美丈夫はそう言うと、まるで鳥が羽を広げる様に、ゆっくりと右手を振り上げた。
すると、その美丈夫の右手の指先の透き間から、白く煌めく微細な糸の様なものが宙に舞った。しかし余りの細さに、瀕死の男の目には映っていなかった。
その糸状のものは、四十五口径を拾い上げようとする男の右肩を何の抵抗もなく通り抜けた。
「っ――」
糸が通り抜けた瞬間、激痛に歪む男の顔が固まった。
ややもして、ゴトリ。
糸が通り抜けた男の右腕が、それを包む背広の袖に傷一つなく、肩から外れて無傷の袖の中からズルリと抜けて地面に落ちていた。
「……ぁ……ぅ……ぁ……」
男は声にならない悲鳴を口の中に響かせて呆然としていた。
「余りの激痛に、苦悶を上げたくとも声にはなるまい。何せ、お前の肩に満ちる魂を引き裂いたのだからな」
美丈夫はそう言うと振り上げた右手を鞭の様に呆然とする男に向かって振り下ろす。
「私にも慈悲というものはある。――楽にしてやるよ」
再度、美丈夫の右手の指先から放たれた白い糸は、今度は男の頭頂から体の中心を下って通り抜けた。
白い糸の通り抜けた男の顔の中心に、糸の軌跡に沿って赤い線が走る。
次の瞬間、男の身体が上下にずれた。
紅い線から鮮血を吹き上げて身体を両断にされた男は、再び前のめりに倒れ込み、今度は呷くことなく沈黙した。
不思議な事に、男の着ている服には先程の袖同様、男の体が左右に両断されているにも拘らず、綻び一つ見られなかった。
衣類には傷一つ付けず、肉体のみ分断された亡骸。物理的にも不可能な死に方である。死神が手にし大鎌といえども、こうは出来まい。
美丈夫は、それを冷淡に見下ろしていた。
亡骸から地面に広がる赤い血の海を見て眉を潜めた美丈夫は、踵を返して何事もなかった様に墓地の通路を歩き始めた。
ふと、美丈夫は丘の上に視線をくれる。
丘の上にある墓石の前で、先程の子連れの若い女が他の喪服の人々と共に黙祷をしていた。
美丈夫は彼女達を知っていた。ほんの三日前に会っていた。
そして、彼女達が此処に来ている理由を。
黒のスーツを着込んだ美丈夫は、しかし彼女達の黙祷の中に加わることなく、まるで避けるようにその場を去って行った。
美丈夫のその後ろ姿には、先程まで見られなかった悲哀が静かに漂っていた。
鎮魂の鐘は風に乗って蒼穹の果てへ流れて行った。
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